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三重県の名城



三重県の城についてです。

三重の名城│石垣データ


城名 高さ 積み方 石材
伊賀上野城 30m 打込接・布積崩し 花崗岩
松阪城 10m以上 野面積み 松阪近郊の石
津城 10m前後 打込接・野面積み --

伊賀上野城


伊賀上野城は天正18年(1585)、大和国の戦国大名筒井定次によって築かれた城である。慶長13年には徳川家康の命により藤堂高虎が伊賀10万石へ入封した。
慶長16年には、藤堂氏による改修が行われ、新たに石垣や水堀が築かれた。城域は筒井氏時代の3倍に拡大したという。また、その際5層の天守を落成していたが、同年九月の暴風によって倒壊してしまった(豊臣を油断させるための演出か?)。

大坂の陣で豊臣氏が滅亡してからは、城としての役割を失ったため、天守の再建が行われることはなく、未完成だった本丸東面石垣の築造も中止となった。ちなみに、現在見ることのできる天守は昭和10年(1953年)川崎克(伊賀上野の政治家)氏の私財によってあがった模擬天守である。

※城内の忍者資料館には米倉が現存している。


POINT

万が一徳川氏と大坂の豊臣勢力が決戦に至り東軍が劣勢になった場合、伊賀上野城は東軍の兵を収容する役割があったため、広大な城域と難攻不落の防御設備を要した。
そのため藤堂高虎は、伊賀領国で雇用した忍者を全国に派遣し、日本の148城の要害図を盗み、それらを参考に自ら縄張りを指示したという。

日本第二位の高石垣

本丸の北・南・西面に築かれた全長約368mの高石垣は、大阪城本丸東面石垣に次いで日本第二位の高さを誇る。
また、傾斜約75°と急勾配なことでも知られている。


水面から頂上まで23m。水面下の部分も含めると29.7mに及ぶ。


(本丸西面石垣の高さ)

本丸高石垣は、藤堂高虎による慶長16年(1611年)の大改修の際に築かれた。

三大築城名人に数えられる藤堂高虎の石垣には反りが無く、同じく三大築城名人の一人である加藤清正の石垣とは相反している。


(↑加藤清正築城・熊本城石垣)

加藤清正は熊本城石垣のように、扇の勾配ともよばれる反りをつけることで、全体を安定させ耐震性を高めているが、藤堂高虎は反りを意識せず直線状に積み上げる宮勾配を採用している。


(伊賀上野城本丸石垣)

清正流石垣(※加藤清正の石垣)は、下部の勾配は緩いが上部にかけて急勾配になり、反り返した地点から敵兵をそぎ落とす狙いだが、伊賀上野城(藤堂高虎・築)の石垣は下部から急に反り立ち堅固に本丸を守っている。


(本丸石垣)隅角部には石の長辺・短辺を交互に積み重ねる算木積みという技法が用いられた。


(矢穴)
石に矢穴痕があるため、加工して積まれたことがわかる。

高石垣を築いた理由

高さ29.7m、全長368mもの壮大な石垣が築かれたのは、豊臣氏への備えとしてだった。
前述した通り、藤堂高虎によって高石垣の築城&近世城郭としての改修 が行われたのは1611年のことで、関ヶ原合戦後も未だ豊臣氏は畿内に勢力を持っていた。
そこで、徳川方大名らは来たる決戦に備え、畿内を取り囲むように城を築き、大阪城包囲網を形成した。
伊賀上野城もその一翼を担っている。万一豊臣VS徳川の決戦に敗れた時には徳川家康が入城する手筈となっていたという。


(本丸石垣)


(上から見下ろした本丸石垣)

石材の仕入れ

高石垣を築くのには相当の石材を必要とし、それらは荒木村、寺田村の山々、長田山、岩倉峡などから調達されたといわれている。
その際は修羅車に載せて昼夜問わず城へ運ばれた。

松阪城


松阪城は天正16年(1588年)、近江日野6万石から加増を受けて伊勢12万6000石へ入った蒲生氏郷により、伊勢支配の拠点として築かれた城だ。
蒲生氏は松阪の城下町に楽市楽座を実現させるなど、町の繫栄に尽力した。
その二年後、蒲生氏は小田原征討の軍功によって会津若松60万石へ移封。その後は服部一忠、古田重勝へ渡り古田氏の時代に城は完成した。
元和年間に紀州藩の支配下に置かれた後も、二の丸に屋敷が設けられ、城代が置かれ続けていた。 現在では高さ10mを超える高石垣を見ることができる。


(石垣)


(連続する桝形)


(天守台石垣 16*17m 最高高さ6.7m)

天守台石垣は穴太衆(戦国時代に活躍した石工集団)によって築かれたとされていて、古式の野面積みを見ることができる。


↑↑石材の不足は古墳に埋葬されていた石棺の蓋を使って補っていた。


(高石垣)

本丸、二ノ丸、きたい丸、隠居丸などは現在も石垣が残る。


(きたい丸)


津城


津城がある安濃津は、古くから政治&軍事の要衝とされてきたが、津城は永禄年間(1558〜1569)に長野氏の一族 細野隠岐守によって築かれたことに始まる。
永禄11年、織田氏が伊勢に侵攻すると、翌年・元亀元年(1570年)、織田信包(※織田信長の弟)の居城となった。信包は石垣や濠の整備、5層天守の築造を行った。
1594年、織田信包が丹波へ移ると富田知信が入城し、後に子の信高に受け継がれた。関ヶ原合戦では東軍に与し西軍の毛利秀元・長宗我部元親率いる3万の大軍を相手に籠城で激戦を繰り広げた。結局、木食上人の仲介により開城したが、本戦での東軍勝利により、再び2万石の加増を受けて津城主に返り咲いたという。
慶長13年、富田信高は伊予宇和島へ転封。津城には代わりに藤堂高虎が入城し、以後藤堂氏による改修後、本城として使用された。


(丑寅櫓)

高さ6.66mの石垣上に建てられた丑寅櫓は近世の模擬櫓だ。


(藤堂高虎の像)


(西の丸二階門跡。)


(天守台石垣)


(移築現存する入徳門)


(藤堂高虎を祀る高山神社)


(地名に城の名残が。)



また、津城の石垣には様々な刻印を見ることができるので必見!

参考文献


伊賀上野城史 伊賀文化産業協会・編 昭和46/3/18 同朋舎
日本の名城事典 南條範夫・監修 三省堂1984/4/30
日本城郭事典 大類伸・監修 秋田書店 昭和51/7/10
石垣の名城完全ガイド 千田嘉博・編 2018/8/3 講談社
名城の石垣図鑑 小和田哲男・監修 二見書房
おわり。


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