今回は、倭城が現地・朝鮮に与えた影響について掲載します。
倭城の概要
倭城とは、豊臣秀吉による慶長・文禄の役の際に日本軍が朝鮮半島に築いた城郭のこと。全国から招集された大名達が日本で使われている最先端の技術を用いて築いたため、堅固で大規模なものになっている。 石造りの天守台、反りのある石垣、畝状竪堀群、登り石垣などがその例である。
現在、20数城は遺構が残っており、見学も可能。
倭城の中でも有名な蔚山倭城、泗川倭城、順天倭城の概要を載せておく。
蔚山倭城(うるさん、いさん)
標高約50mの丘陵上に築かれた丘城。最高所に石垣で囲まれた本丸が配され、天守台などには石垣も残る。朝鮮・明連合軍の包囲に加藤清正が籠城した蔚山城の戦いは有名。
泗川倭城(しせん)
泗川湾に面した比高約20mの丘陵上に位置する城。慶長三年10月、朝鮮・明連合軍による攻撃を受けたが、島津ら日本軍の奮戦によって撃退する。順天倭城(じゅんてん)
韓国最西端の倭城で、朝鮮半島南部の支配のため、慶長二年11月から小西行長、宇喜多秀家、藤堂高虎らによる二か月間の突貫工事で築城された。驚愕の倭城
倭城は、織豊系大名らが長い年月をかけて培ったノウハウをもって築いた、最先端の城郭であり、その画期的な築城術は朝鮮半島に衝撃を与えた。
朝鮮・明軍は何度も各地の倭城に攻撃を仕掛けたが、一つも落とすことができなかったという。
また、蔚山倭城で起こった蔚山城の戦いで、朝鮮軍義兵として参戦した郭再祐は、倭城のことを「堅固さは無比のものである」と称賛している。
当時の朝鮮王国・宣祖は、倭城に感服し、朝鮮の城郭に倭城の技術を導入しようと動き出したのであった。
ちなみに1590年11月、豊臣秀吉の国内統一を祝うため、朝鮮の使節として来日してきた金誠一は、聚楽第の外観を「神仙の住む城のよう」と評価しているため、日本城郭の堅牢さ、すごさは前もって知っていたのかもしれない。
朝鮮王朝の動き
日本軍撤収後、朝鮮王朝は倭城を再利用しようとした。
釜山に築かれた子城台倭城では、一部を再利用し朝鮮水軍の拠点である釜山鎮が移築された。加藤清正の激闘で知られている蔚山城にも、軍事拠点が移された。さらに、安骨倭城、西生浦倭城でも朝鮮軍の駐屯地である「鎮城」が築かれ、積極的に倭城を利用する動きがみられる。
ただ、朝鮮軍はすぐに日本式城郭に適応できず、日本軍が残した倭城のうち、再利用したのは一部だけで、大半は従来のままであったという。
日本の石垣
朝鮮王朝が日本式築城術を導入するにあたって難航したのが石垣の築造だった。
日本の城郭は「反り」ををもち、石垣の高さの二分の一あたりから反りかえり、上部ほど勾配が急になる仕組み(扇の勾配)。構造上、下部は勾配が緩やかなので、石垣を登る敵兵を見つけやすく、射撃しやすい。さらに、耐震性も高い。中でも築城の名手・加藤清正が築いた石垣は清正流石垣と言われ、日本最高の技巧を凝らされている。
これは倭城にも多用されていたため、国王が籠城したこともある朝鮮の重要な城郭だった、南漢山城に付属する甕城にも、そのような日本式の石垣を導入している。だが、再現するのは難しかったようで、扇の勾配は不完全な状態だ。
まとめ
倭城について調べると、朝鮮に与えた影響や王朝による再利用について知ることができた。
倭城の築城術は朝鮮に衝撃を与え、日本軍撤退後、朝鮮王朝はその再利用や技術の導入へ動いた。 ちなみに、朝鮮では18世紀にも、華城の築城にあたって、国王・正祖は倭城を分析し、倭城の石垣技術導入について検討している。(しかし、当時の攻城戦は大型火器による攻撃が主流であったため、却下された。)
参考文献
倭城を歩く 織豊期城郭研究会・編 2018/5/20 サンライズ出版
織豊系城郭とは何か 村田修三・監修 城郭談話会・編 2017/4/8 サンライズ出版
日本城郭史 大類伸、鳥羽正雄・著作 昭和38年/8/25 雄山閣
城用語データベース
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