トップ画像
日本全国の名城の占地(立地環境)について調べ、「何故そこに城が築かれたのか」考察してみました。

山城編

一乗谷城

朝倉氏の本拠である一乗谷城は、標高475mの一乗城山に築かれた城で、山頂付近に千畳敷や月見櫓などの多数の遺構がある。
一乗城山は急峻な箇所もあり、もとから攻めがたい山だったが、畝上竪堀群によって敵軍の進軍を阻む措置がとられている。

山下には一乗谷という南南西から北北東へ延びる長さ3kmほどの谷があり、 その両端に「上城戸」、「下城戸」の城戸を設け、その間に朝倉氏屋敷、城下町が置かれた。
この谷底平野(現在の城戸ノ内町)には、一乗谷川が流れ、下城戸辺りで足羽川に合流する。かつては川湊にも繋がる水運の要衝であった。
また、足羽川沿いに美濃街道が通っていて、交通の便にも優れている。一乗谷は朝倉家の本拠として相応しい地だったのだ。 

一乗谷は、水運に恵まれ、街道筋も通る交通の要であったから。

八王子城

八王子城は北条氏が標高460mの深沢山に築いた城で、南西に甲州街道、小仏峠があり、甲府盆地から相模川流域を経て関東へ入る際の関門だった。つまり、小仏峠、深沢山は、武田軍が関東に侵攻する際に想定される進軍ルートであり、それを防ぐために八王子城を築いたと考えられる。

深沢山は、甲州街道を押さえる要地だったから。

山中城

山中城は後北条氏が小田原城の支城として築いた城で、畝堀、障子堀を巧みに利用した縄張りとして有名。
そして注目すべきところは、街道が城内に取り入れられていること。
この街道は箱根路(旧東海道)で小田原にも繋がるため、山中城は敵軍が侵攻した際に小田原への進軍を防ぐ役割があったと考えられる。
豊臣秀吉の小田原征討時もでは、豊臣秀次率いる7万の軍が箱根越えのため山中城を攻撃した。この時は落城してしまったが、豊臣方に大きな損害を与えた。

山中新田は、敵の箱根越えを防ぐための要衝だったから。

岐阜城

織田信長が拠点とした岐阜城は、標高329mの金華山に築かれた城。金華山は山全体が強固なチャート(推積岩)から成り、浸食されずに急峻な崖や谷が残されている。
さらに金華山下には長良川が流れていて、岐阜城が金華山に築かれたのは、この悪路を防御に活かすためだったと考えられる。

金華山は急峻な峰があり、山下に長良川が流れる要害だったから。

小谷城

浅井氏の本拠である小谷城は小谷山にある城で、幾多もの曲輪を備える堅城。
さらに小谷山は山下に北国街道、小谷道、北国脇住還が通っていて、交通の要地でもあった。 小谷道はすぐ南で東海道に通じており、北国脇住還は中山道と繋がっている。 小谷山は浅井氏の拠点として相応しい立地であったのだ。

小谷山は山下に街道が走る交通の要地だったから。

安土城

安土城は織田信長が築いた巨大な近世城郭。
信長は琵琶湖周辺に支城網を構築し、連携して安土城を守る仕組みを作っていた。
詳しくはこちら

琵琶湖の水運を利用して支城網を築くため

竹田城

竹田城は虎伏山に南北400m、東西100mにわたって築かれた巨大な石造りの城。
丹波国と但馬国の国境に位置し、重要な地点にある。
竹田城は眼下に流れる円山川から生じる蒸発霧が、昼と夜の寒暖差によって雲海となり、城山を 包み込む。これは防御面でも利点だったのではないか。
さらに、山麓に通る但馬街道は南方で山陰道と合流する。つまり交通の要地でもあったのだ。

虎臥山は要害の地で、交通の便も良好だっから。

鳥取城

鳥取城は標高264mの久松山に築かれた城で、北に鳥取港、西に千代川、東に円護手川が流れ、絶好な立地である。

周囲に河川が多く、水運、軍事に優れていたから

春日山城

春日山に築かれた上杉氏本拠の春日山城は、日本海に面していて、直江津に近く、戦国屈指の水運の要衝だった。
そのため、越後の本城として相応しい地であった。

月山富田城

毛利氏の本城、月山富田城は、急峻な月山に築かれた堅城で、西に飯梨川が流れている。つまり、月山に城が築かれた理由は、西からの攻撃に強かったから。

以上、「名城の占地を考察-山城編」でした。