安土築城の経緯と通説
浅井、朝倉ら反織田勢力を一掃し畿内に覇を唱えた織田信長は、1567年近江に新たな居城となる安土城を築城した。安土城の縄張りや建築様式は革新的なもので、天守、鯱、石垣が初めて導入された城として、近世城郭の起源とされている。
そして、注目すべきところは防衛上の脆弱性である。
戦国期の城郭は至る所で城道を曲折させることで敵軍に横矢を掛ける構造だが、安土城の大手道は大手門(推定地)から約160m程進んだところで初めて屈折するという、特異な縄張りを成している。
このことから、安土城は軍事的な目的ではなく、権威を誇示するための築城であったともされている。
西国や東北地方の勢力を臣従させるための策で、戦のない世を見据えた信長の思想が反映されているとみるのも自然だ。
信長は豪壮な巨大天守を上げていたり、お盆に天守(主)を提灯でライトアップしていたり、一般人に城内部を公開したりしていることからも権威を示す姿勢が窺える。
安土城の防御力
しかしながら、安土城は三方が琵琶湖に面していて、標高199mの天守(主)を中心とした無数の曲輪群は、戦時を想定した造りにも思える。大手道は大手門からしばらく屈折しないが、黒金門から先は執拗に折り曲げられ、桝形虎口等の実戦的な防御施設も見られる。
支城網での防衛
安土城は、織田信長が京と安土を結ぶために造られた「下街道」(東海道の上街道に対する)と中山道を通じて、佐和山城、坂本城に繋がっている。他にも街道筋を辿れば、大溝城、瀬田城、長浜城等の支城と結びついていることが見て取れ、琵琶湖近傍の交通の要地に支城網を構築していることが分かる。坂本城には明智光秀、佐和山城には丹羽長秀、大溝城には津田信澄(一門)、長浜城には羽柴秀吉、と、名だたる重臣や一門衆を置き、盤石な体制を築いている。
又、これらの支城は全て琵琶湖に面しているので、仮に近江の一部の支城が侵略、鹵獲されても、他の支城から物資や援軍を速やかに水上輸送することができるであろう。
水上輸送の検証
安土に敵大軍が迫っているとき、大溝城から援軍、物資を輸送すること(また、その逆も)がどのくらいの時間でできるのか、予測してみる。今回は、大溝城に面す琵琶湖大溝漁港付近から、安土城安土山まで、船で移動した場合の時間を概算して検証する。
大溝漁港から安土山までの行路を、1580年代から現代までの地殻変動(現在、琵琶湖から安土山までは西の湖を経由しなければならないが、当時は琵琶湖と安土山が隣接していた。)を踏まえて、21kmのところを18kmとし、運輸船を現代のカッターボートのような形式だと仮定して3〜4ノット程の速さで移動できるものとする。
となると、
18÷(1.852×3)=1.94, 1.94≒1.9, よって天候や物質重量、漕手の力量にもよるが、大凡2時間で琵琶湖を横断できることになる。
琵琶湖支城綱の再評価
中世、物質の運搬には馬が必要で、それらを手配する町人にも負担があった。しかし、織田信長は琵琶湖を中心に市場網を築くことによって水路での支城連携を実現した。また、視界の開けた琵琶湖を利用することで、賊や盗人に遭遇することも無いだろうし、安全面でも琵琶湖の利用は評価することができる。
結局何が言いたかったか
安土城は一概に「権威示威のための城」とは言えず、防御面も意識した占地、縄張りであり、決して脆弱な城ではないということだ。また「琵琶湖支城網」は、今回大溝⇔安土間の輸送を調べたが、他の支城との連携も可能で、画期的な連携。