織田信長の最後の居城として有名な安土城の天守(天主)は豪壮なものであったと言われています。
信長の側近で右筆の太田牛一が記した信長公記から、
安土城天守の実像に迫ります!

信長公記の記述

信長公記の安土城天守についての記述を現代語に分かりやすくし、尺や間の単位をmに直した。

信長公記

高さ22メートル程の石蔵の内側を土蔵として使い、それを一階とし、 七階まである.
二階は石蔵の上にあり、
広さは南北約36メートル 東西約31メートル 高さ約30メートル。 柱の数は204本。
本柱の長さは約14メートル太さは40センチくらいの木材 。座敷の内壁にはすべて布を張り.黒漆を塗った。
西には十二畳の部屋があり、狩野永徳に墨絵で梅の絵を描かせた。下階から上階まで絵が描いてあるところには金を用いた。
付け書院には煙寺晩鐘の景色を描かせ、その前に盆山を置いた。 四畳敷には棚に鳩の絵.十二畳敷は鵞鳥を描かせたので鵞鳥の間とも言う。
八畳敷は食膳を整えるところで、その向こうに、また八畳敷がある。
納戸は7つあり.この下に金燈龍が置いてある。
北のほうには土蔵があり、その次に座敷、二十六畳敷、西に六畳敷、十畳敷、次いで十畳敷、十二畳敷がある。
三階には花鳥を描かせた花鳥の間.一段高く造られ同じく花鳥の絵がある御座の間がある.
八畳敷は賢人の間といわれる。瓢箪から駒が出る描かれている。ちょうど門の上にあたる。
東は麝香の間。八畳敷、十二畳敷で、門の上にあたる。
八畳敷には仙人と博説の絵が描かかれている。
北にある二十畳敷には牧場と馬が描かかれている.
次いで十二畳敷は西王母の絵がある.西には絵がある.
三階の柱の数は146本。
四階の十二畳敷には岩の絵があるので岩の間という。
その西の八畳敷には龍虎が戦う絵がある.
南の十二畳敷には竹だけいろいろ描かかせたので竹の間という。
東の八畳敷は桐に鳳凰を描かせた。
北に十二畳敷。ここに絵はない
次いでまたまた十二敷畳。鷹の間という
四階に柱の数は93本
五階に絵はなく、四間ある。
六階は朱色の平面八角形である.
最上階は正方形で一辺6メートル(約)。四方の内柱にのぼり龍.くだり龍を描かせ、高欄の擬宝珠には彫刻が施され、外も内側も金。
最上階の金具は後藤光乗が手掛けた.京都などの金工が補佐した。
大工棟梁は塗師頭刑部.岡部又右衛門.宮西遊左衛門 瓦は唐人の一観に命じ.その指揮下に奈良の工人が焼いた。普請奉行は木村高重。

安土城天守は様々な絵があり、煌びやかな建物であったことがわかる。
柱の数、部屋の数からも巨大さが窺える。天主は防禦施設ではなく、外観の偉観を旨とした御殿的な建造物であったということは周知されているが、これまでに金と漆で仕立てられていたということは信長公記ぐらいしか記録されていない。

ルイスフロイスの「日本史」にも、

日本史

私たちの塔より気品があり壮大な建築である。 この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。

と書かれている。外国人から見ても豪華だったのだろう。

因みに

ここまで豪壮な天守を上げたのは織田信長の近畿制圧と上洛を示すため。
信長は一般人に内部を公開して入城料を儲けていたり、お盆には提灯でライトアップしていたそう。豪華な天守を世に見せつけようとした。そのため、豪壮な天守を築く必要があった。
日本で初めての本格的な天守と鯱、平面不等辺七角形の初層、革新的なデザインは、 かの有名な鳥羽正雄氏、大類伸氏の「日本城郭史」(昭和11年発行)にも「一層精巧且莊大なものが築造される様になった」として安土城天守を取り上げている程だ。
当時は金箔瓦が使われていて、漆黒の窓と白壁が目立っていたと思われる。
また、内部は吹上げになっており、金と絵画によって豪華に仕立て上げられていた。
織田家身内に放火されて姿を消した安土城天守だが、現存していたら日本最大木造建築物となっているはず。復元すると505億円かかる。勿体ない。