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穴太衆



戦国時代に活躍した石工集団“穴太衆”についてです。

穴太衆とは


穴太衆は比叡山延暦寺の麓“穴太”に暮らしていた石工(石垣技術者)たちのこと。
近江国穴太出身でなくとも石垣技術者を総称して穴太衆と呼ばれることもあった。
名良洪範、兼見卿記、山科家礼記などの文献に“あのうのもの”などと記載があり、戦国時代に多くの城郭の石垣を築いたとされている。
安土城の石垣を築いたことで穴太の技術が評価され、織田信長をはじめとする全国の大名に石垣普請を命じられた。そのため穴太衆が関わったとされる石垣が各地に残されている。
また、近年、穴太衆を題材にした小説『塞王の楯』が直木賞を受賞するなどして注目が高まっている。

しかし穴太衆に関する史料は少なく明らかでないことも多い。

野面積み


穴太衆は自然石をそのまま積み上げる“野面積み”という技法で積むが多く、とくに穴太衆が築いたものを“穴太積み”と呼ばれることもある。 また、穴太衆は石を修羅、平田船、地車、石釣り技法、などによって効率的に運搬していることにも注目されている。

安土城石垣


穴太衆は、日本初の総石垣城郭である安土城の石垣を築いたことで知られている。
しかし伝承の根拠となった文献“名良洪範”は江戸時代後期に成立した文書であり同年代の史料ではないため、穴太衆と安土城石垣の関係についての詳細は明らかではない。
さらに、安土城の石垣普請に関しては信長公記にて詳細が記録されているが、穴太衆に関しては一切記述が無い。

信長公記九巻「安土御普請の事」桑田忠親校注 新人物往来社

観音寺山・長命寺山・伊場山、所々の大石を引きずり下ろし、千、二千三千宛にて、安土山へ上がらせ候。
石奉行 西尾小左衛門、小沢六郎三郎、吉田平内、大西
大石を選び取り、小石を選び避けられ、ここに津田坊、大石、御山の麓まで寄せられ候といえども、蛇石と云う名石にて、優れたる大石に候間、一切に御山へ上がらず候。然る間、羽柴筑前・滝川左近・惟住五郎左衛門三人として、助勢一万余りの人数を以て夜日三日に上がらせ候。

これらを踏まえると、穴太衆らが主軸となって石垣普請が行われたことは事実だが、当時穴太衆が著名な集団ではなかったか、多くの石工集団が集まった中の一つに過ぎなかったとも考えられる。


近世の穴太衆


安土城の石垣築造によって天下に名を知らしめた穴太衆は、豊臣秀吉による比叡山復興策によって近江八幡の石工(馬淵)らと共に活動をはじめ、江戸時代には石垣技術者としての地位を徐々に確立していった。
文化四年(1807年)、穴太衆の頭の譜系を記した『二人由緒書』によると、穴太衆を統率していた“穴太頭”は戸波惣兵衛と戸波市次郎なる人物とされ、代々知行100石を得ていたという。
現在は穴太衆の流れをくむ粟田氏によって株式会社粟田建設として存続している。


(↑穴太衆が築いたとされる岡城の石垣)


参考文献


戦国の城と石垣 中井均 2022/6/10 高志書店
改訂・信長公記 桑田忠親・校注 新人物往来社 昭和51/2/1
信長と家臣団の城 中井均 KADOKAWA 令和二年/3/27
石垣の名城完全ガイド 千田嘉博・編 2018/8/3 講談社
日本城郭大系別巻1 児玉幸多、坪井清足・監修 昭和56/4/15 新人物往来社
おわり。

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