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武田氏




武田氏が滅亡した原因について。
武田氏は長篠の戦いで織田・徳川連合軍に破れ、山県昌景・内藤昌豊・馬場信春をはじめとした多くの重臣を失ったことが、滅亡の決め手になったことが知られていますが、その他の要因を挙げてみました。

火縄銃の入手困難

長篠合戦で織田信長が火縄銃を大々的に使用したことは有名ですが、対する武田勝頼(最後の武田氏当主)も火縄銃には意欲的で、先代の武田信玄時代から武田軍には鉄砲隊が存在していました。ただ、火縄銃に使われる火縄などの生産地や海外貿易港を有していない武田氏は、鉄砲の入手・製造が困難であり、実戦で火縄銃を多く導入できませんでした。対して織田氏は堺などの貿易港や、近江国友村などの鉄砲生産地を領有していたため、長篠合戦などで火縄銃を大量に投入できました。

甲相同盟の決裂

天正6年3月9日 越後の上杉謙信が死亡し、その後継者争いとして、景勝(謙信の甥)と景虎(北条氏康の子で謙信の養子)の間で合戦が勃発(御館の乱)。
当時武田氏は北条氏と甲相同盟を締結していたため景虎方を支援していましたが、景勝側から金銭の献上などがあり、当然景勝と和解してしまったのです。そのため北条からの反感を買う結果となり、甲相同盟が決裂。そのため武田領は西の織田・徳川に加えて東の北条からの攻撃も受けることになってしまいました。

高天神城の陥落

「高天神を制すれば遠江を制する」ともいわれる高天神城(静岡県掛川市)は、武田の重要な支城でした。
そのため織田・徳川連合軍は高天神城を狙いに定め、天正9年 城の周囲に砦や付城を多数構築しながら攻撃を仕掛けます。しかし高天神城では兵糧が不足し危機的状況でした。さらに、武田勝頼に支援を求めるも、勝頼は長篠合戦の戦後処理などでそれどころではなく、援軍の派遣は叶いませんでした。
そのため、高天神城の城兵は力尽き織田に降伏。
しかし、織田信長は、勝頼の信用を失墜させるため降伏を許さず攻撃を続け、城兵は皆、討死してしまいました。
それによって、「勝頼は高天神城を見殺しにした」と、武田の家臣たちは不満を抱いて、離反してしまいました。

浅間山の噴火

当時、浅間山の噴火は不吉とされていましたが、天正10年 皮肉にも噴火。武田家臣らの士気は低迷していきました。

木曾の寝返り

天正9年、武田方の有力国衆だった木曾義昌が、武田を裏切り、織田に味方したことによって武田領内は混乱。
また、織田軍が信濃国、伊那口からの大規模な攻撃が可能になったことで、武田領は徐々に侵攻され、崩壊していきました。
さらに、武田の士気低下によって、次々と支城が織田に降伏、開城。もう勝頼に味方するものは僅かになっていました。

岩殿城閉鎖

信濃・甲斐国が崩壊したのち、武田勝頼は新たな本拠地として築城途中だった新府城を破棄し、家臣の小山田信茂が守る岩殿城へ退避することになりました。 しかし、城に到着する直前で小山田信茂が裏切り、岩殿城は閉鎖されてしまい、僅かな手勢で途方もなく逃げることになってしまいました。



おわり。

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