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唐沢山城




唐沢山城は関東三山城の一つに数えられる山城。佐野氏と上杉軍の激闘の舞台として有名。
唐沢山城は標高247mの足尾山南端に位置する。

築城

平安時代末ごろ、平将門の乱平定の軍功を挙げた藤原秀郷は、鎮守府将軍・下野守を叙任された。その際、一族の本拠として築いた城が唐沢山城の起源である。

天慶3年から築城を開始し、同5年には完成。藤原氏は以後、五代にわたり本拠地とした。
しかし将軍職が源氏へ移ると、藤原氏は城を廃し下野国足利へ移った。姓も足利へ改称したという。
そして時代が下り、転機が訪れたのは治承4年。足利家当主足利俊綱の弟、成俊が佐野姓を名乗り、居城として唐沢山城を改修したのだ。戦国大名佐野氏と“中世城郭”唐沢山城のはじまりである。

戦国時代

足利氏の子孫は佐野氏のように分かれて下野各地に土着したが、いずれも衰退。佐野氏も宝治合戦に敗れ一時は衰退したが、中興の祖と称される佐野盛綱が唐沢山城を修築するなどして戦国大名としての地位を確立した。
しかし佐野氏は、北に上杉氏、南に後北条氏という二つの大国に挟まれていたため、いずれかの勢力に従属、離反を繰り返し家を存続させていた。

永禄2年5月、佐野氏は上杉方に属し北条軍3万5千の大軍に包囲されたが、上杉軍の援軍8千騎が北条軍の包囲を解き、勝利。
同4年には北条方に寝返り、上杉氏と対立。11月、唐沢山城は上杉謙信による攻撃を受けたが城を堅守。その後も天正2年までに10度の攻城戦が繰り広げられ、その度に防衛。関東一の堅城として名を天下に知らしめた。

天正6年、上杉謙信が没すると佐竹氏と組み、後北条氏と敵対。同9年、唐沢山城は後北条氏による攻撃を受けたが、やはり佐野氏はこれを撃退。佐竹氏との連携で善戦もあったが、隣国の長尾顕長との抗争で佐野家当主、宗綱が討ち取られてしまった。
すると、後北条氏が混乱に乗じて唐沢山城を奪取。無念にも、佐野氏は北条の傘下に入ることになってしまった。戦いは佐野氏が北条氏忠を養嗣子に迎えるという条件で和睦したが、佐野家中では北条氏の傘下に下ることへの抵抗感があり、多くの重臣の離反を招いた。

小田原征討

豊臣秀吉による小田原征討で宗綱の弟、天徳寺了伯が唐沢山城の城代大貫氏を討つなどの軍功を挙げ、豊臣秀吉から唐沢山城を含める3万9千石を安堵された。
天徳寺了伯は佐野房綱に名を改め、唐沢山城を大改修。本丸を取り囲むように大規模な石垣を増築するなど、近世城郭へ変貌させた。
佐野氏は以後1619年の取り潰しまで存続したと伝わる。
現在、見ることのできる遺構はほとんどこの時のもの。



主要参考文献


日本城郭大系 児玉幸多 坪井清足・監修 昭和54/11/15 新人物往来社
日本の城事典 南条範夫・監修 1984/4/30 三省堂
日本城郭事典 大類伸・監修 秋田書店 昭和51/7/10
攻める山城50城 清野明 山と渓谷社 2018/3/1
Wikipedia 唐沢山城 https://ja.wikipedia.org/
おわり。


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