上杉謙信の後継者争いである「御館の乱」についての記事です。

後継者は誰か

天正6年3月9日、上杉謙信が死没。
謙信が生前に後継者として指名したのは誰なのか、景勝(謙信の姉の子)説と景虎(謙信の養子)説があります。 正当な後継者は景勝だとする説の理由は、 生前に直江景綱後室が「家督が景勝公へお譲りなされますか?」と、問いかけ、謙信が首肯したといわれているから。しかしこれは後に後継者争いに勝利した景勝の正当性を示すための虚実の可能性があるので信憑性に欠けている。 正当な後継者は景虎だとする説の理由は、景虎が「景虎」という、謙信自身の旧名を与えていることと、景勝よりも先に上杉姓を許されていること、天正3年の上杉氏軍役帳に景勝の名前があるものの、 景虎の名前が記載されていないこと(招集する、上に立つ立場であることを示している)からだ。

後継者争いの開戦

1578(天正6年)、景勝と景虎の後継争い(御館の乱)が勃発し、早くも翌14日には景虎派と目されていた柿崎晴家が景勝方に暗殺されたと言われる。 景勝は直江、本庄、らの味方上杉家臣と協議し、上田長尾衆(景勝実家)を動員して上杉氏本拠の春日山城を占拠した。 景勝は春日山城を封鎖して防備を固めた。上杉氏の本拠を手中に収め景勝は後継者としての正当性を世に示した。 一方、景虎は御館を拠点として上杉氏後継者を名乗った。また、景虎は北条氏康の子だったため、背後に北条が構えていた。それを意識して上野国に在陣している上杉氏の将は景虎方に加勢した。 この時点では、春日山城を奪取した景勝と、上野国の将を味方につけた景虎は互角。

景虎の優勢

春日山城内では景虎に内通する家臣や脱出して景虎に寝返る者が多く、景虎が徐々に優勢になっていった。 春日山城では放火も起き、城下が焼ける事態にもなった。さらに堀江宗親、桃井義孝、本田石見守らの有力な景勝方家臣が 景勝を裏切り、御館に入った。これによって御館の軍勢は勢いを増していき、次々と春日山周辺の景勝支城を攻略し主要な街道を抑え、春日山城を孤立させた。

景勝の挽回

景虎は内戦を早期に終わらせようとして17日、6000の兵で春日山城を攻撃した。しかし春日山城は景勝の死守により景虎軍を撃退。それを皮切りに景勝は周辺の城を相次いで攻撃。どんどん攻勢を増していった。 遂に春日山城周辺の街道を奪取した。 また、蘆名氏が内乱に乗じて越後を乗っ取ろうと、景勝を攻めたが、撃退。 しかし強大な力を持つ景虎を撃破することはできず、、やっと互角に持ち越したくらいだった。

武田氏の介入

景虎は武田氏を頼った。すると、、当時絶大な勢力を持っていた武田氏が景虎の味方をしたのだ。 武田勝頼は越後に2万人の大軍を率いて出陣した。しかし!その直後に武田勝頼は景勝と和睦した。 武田勝頼は、北条方の景虎に味方したうえで景勝と和睦したことで、景勝、景虎のどちらが勝利しても武田が上杉と良好な関係を築けるようにしたのだ。 ちょうどそのころ、北条は佐竹と戦っていて、景虎に援軍を出せていなかったので景虎は武田の援軍も失い、窮地に立たされた。 士気を失った景虎軍は次第に衰退。鮫ヶ尾城にて景虎が自害して、乱は終結した。

その後

当初は窮地に立たされ、勝機などないと思われていた景勝が最終的に勝利したという珍しい戦い。 景勝は上杉氏の後継者となり、越後の大名となった。一方で... 景虎の父、北条氏康は、景虎に援軍を出さなかった武田勝頼に激怒。甲相同盟は破綻してしまった。