今回は東北、北海道の名城の面白い伝説やエピソードを一城一話 紹介します。
江戸時代、松前藩主・矩広には松枝と幾江という2人の側室がいて、家中に派閥をつくって対立していました。
すると、幾江派が「松枝に不義(不倫)あり」と虚偽の報告をしました。
これを聞いた藩主は直ちに松枝を斬り、不義相手として法憧寺の和尚、門昌庵も殺してしまう。
これを幾江派の謀略とみた松枝の兄は、幾江派らを討とうとしますが、失敗し、井戸に投げ込まれて殺されてしまいました。
その井戸が「闇夜の井戸」として今に伝わっています。
1660年代、松前藩は先住民族アイヌの居住域を侵略し、略奪、殺人を繰り返していました。
すると、1669年、アイヌの人々が決起。アイヌと松前藩の争いに。
結局、松前藩軍が勝利し、松前藩はアイヌ酋長シャクシャインらの耳を削ぎ切り,埋めました。
それが現在の「耳塚」になりました。
稜堡式は防御上の死角を低減した当時の最新の築城技術。 縄張りは堅牢で強いですが、実は石垣が低く、堀幅も12,3mほどしかありません。
近世の大砲などによる砲撃戦に対するセキュリティーが甘すぎです。 砲撃されたら弾が城内に届いてしまいます。
さらに、当初「稜堡」と呼ばれる、城から独立した出城のような攻撃拠点を五ヶ所造られる予定でしたが、 結局予算不足で1箇所しか造られませんでした。
また、大砲を砲台に乗せるためのスロープをつけるのを忘れていて、周辺の民家を壊してスロープを作ったというエピソードもあります。
実際、幕末に旧幕府軍が五稜郭に立てこもり新政府軍が攻めたときは数日で落ちています。
初代天守の消失の理由は落雷でした。
当時の弘前城主の日記によると、5層目に落雷し炎上。瞬く間に4層目にも火が回ったと言います。
すると!吊るしてあった時報の鐘が、灼熱の炎に熱せられ
天守下にあった弾薬庫に落下!
爆発して弘前城は炎に包まれました.....
もし時報の鐘がなければ5層の巨大天守が今に残っていたかも。
九戸城攻城戦の際、豊臣軍はなかなか九戸城を落とせずに苦戦。
そこで豊臣は10万人の大軍で城を囲み、降伏を迫りました。
その時、降伏の条件として、乱の指導者・九戸政実の命と引き換えに城内の人々の命を保証することを約束。 これに、九戸政実は合意し城から出て降伏を宣言しましたが、豊臣軍は条件を守らず、無理矢理城に押し入り、城内の人々を皆殺しにしてしまいました。
豊臣は「天下統一の総仕上げ」に苦戦し焦っていたのかも。
そのため、江戸時代、徳川家が佐竹氏に対して不信感を持っていて、常陸国から秋田へ転封を命じた。
佐竹氏は転封後の本城・久保田城を、幕府に配慮して全く堅固に改修しなかったという。
実際、久保田城には石垣があまり見られず、土塁中心のつくりになっている。
城域も特に広くはなく、質素な城だと言える。
これに、当主の義宣自身も、「もし戦いがあって、敵が杉峠(山形県との県境)を超えたという知らせが届いたら、わしは腹を切るしかない」といったほどだ。
しかし幕府は毎回、大名の力を弱めるため、第一希望を認めず、第二希望のみを承認していた。
伊達政宗はこの機密を知り、居城を築く際に第一希望の榴ヶ丘をわざと第二希望として挙げ、第二希望の青葉山を第一希望として幕府に提出した。
ところが、なぜか、幕府は第一希望(青葉山)を認めた。
政宗は仕方なく仙台青葉山に城を築きました。
以上、東北の城エピソード集でした。東北にはまだまだいろんな伝説、エピソードが残されているので、今後も同じような記事を掲載します!
松前城 恐ろしい遺跡の由来
松前城大手門の西側に、「耳塚」「闇夜の井戸」という2つの遺跡があります。2つとも、恐ろしい歴史がありました。闇夜の井戸
江戸時代、松前藩主・矩広には松枝と幾江という2人の側室がいて、家中に派閥をつくって対立していました。
※多分こんな感じ?
すると、幾江派が「松枝に不義(不倫)あり」と虚偽の報告をしました。
これを聞いた藩主は直ちに松枝を斬り、不義相手として法憧寺の和尚、門昌庵も殺してしまう。
これを幾江派の謀略とみた松枝の兄は、幾江派らを討とうとしますが、失敗し、井戸に投げ込まれて殺されてしまいました。
その井戸が「闇夜の井戸」として今に伝わっています。
耳塚
1660年代、松前藩は先住民族アイヌの居住域を侵略し、略奪、殺人を繰り返していました。
すると、1669年、アイヌの人々が決起。アイヌと松前藩の争いに。
結局、松前藩軍が勝利し、松前藩はアイヌ酋長シャクシャインらの耳を削ぎ切り,埋めました。
それが現在の「耳塚」になりました。
五稜郭 実は最弱の大城郭
北海道にある「五稜郭」は、西洋の築城技術を取り入れた日本最大の稜堡式(星型)城郭として有名です。稜堡式は防御上の死角を低減した当時の最新の築城技術。 縄張りは堅牢で強いですが、実は石垣が低く、堀幅も12,3mほどしかありません。
近世の大砲などによる砲撃戦に対するセキュリティーが甘すぎです。 砲撃されたら弾が城内に届いてしまいます。
さらに、当初「稜堡」と呼ばれる、城から独立した出城のような攻撃拠点を五ヶ所造られる予定でしたが、 結局予算不足で1箇所しか造られませんでした。
また、大砲を砲台に乗せるためのスロープをつけるのを忘れていて、周辺の民家を壊してスロープを作ったというエピソードもあります。
実際、幕末に旧幕府軍が五稜郭に立てこもり新政府軍が攻めたときは数日で落ちています。
弘前城 天守の烈火
弘前城は現存天守がある城として有名ですが、実は弘前城の天守は1627年に一度焼失していて、その後に再建されたのが現在の天守なんです。初代天守の消失の理由は落雷でした。
当時の弘前城主の日記によると、5層目に落雷し炎上。瞬く間に4層目にも火が回ったと言います。
すると!吊るしてあった時報の鐘が、灼熱の炎に熱せられ
天守下にあった弾薬庫に落下!
爆発して弘前城は炎に包まれました.....
もし時報の鐘がなければ5層の巨大天守が今に残っていたかも。
九戸城 乱の終結
豊臣秀吉天下統一事業最後の戦い・九戸政実の乱(九戸政実を中心に反豊臣勢が結集して九戸城に立てこもった合戦)には、悲惨な伝説が残されています、、、。九戸城攻城戦の際、豊臣軍はなかなか九戸城を落とせずに苦戦。
そこで豊臣は10万人の大軍で城を囲み、降伏を迫りました。
その時、降伏の条件として、乱の指導者・九戸政実の命と引き換えに城内の人々の命を保証することを約束。 これに、九戸政実は合意し城から出て降伏を宣言しましたが、豊臣軍は条件を守らず、無理矢理城に押し入り、城内の人々を皆殺しにしてしまいました。
豊臣は「天下統一の総仕上げ」に苦戦し焦っていたのかも。
久保田城 あえて弱く造った
関ヶ原の戦いの際、佐竹氏は豊臣恩顧の大名であったため、徳川勢に属さず、中立的な立場をとっていた。そのため、江戸時代、徳川家が佐竹氏に対して不信感を持っていて、常陸国から秋田へ転封を命じた。
佐竹氏は転封後の本城・久保田城を、幕府に配慮して全く堅固に改修しなかったという。
実際、久保田城には石垣があまり見られず、土塁中心のつくりになっている。
城域も特に広くはなく、質素な城だと言える。
これに、当主の義宣自身も、「もし戦いがあって、敵が杉峠(山形県との県境)を超えたという知らせが届いたら、わしは腹を切るしかない」といったほどだ。
仙台城 政宗の思惑
江戸時代、大名が城を築く時は徳川幕府に築城希望地を2,3個挙げて幕府に出願する事になっていた。しかし幕府は毎回、大名の力を弱めるため、第一希望を認めず、第二希望のみを承認していた。
伊達政宗はこの機密を知り、居城を築く際に第一希望の榴ヶ丘をわざと第二希望として挙げ、第二希望の青葉山を第一希望として幕府に提出した。
ところが、なぜか、幕府は第一希望(青葉山)を認めた。
政宗は仕方なく仙台青葉山に城を築きました。
以上、東北の城エピソード集でした。東北にはまだまだいろんな伝説、エピソードが残されているので、今後も同じような記事を掲載します!