東京都にある石神井城について掲載します。
立地
石神井川と三宝寺池を起点に東西へ延びる標高40~50mの舌状台地基部に占地しているため、東京都の中ではやや高地。
東西を堀切で遮断し、比高7mの崖で守っている。
さらに、北に水量豊富な三宝寺池、南に石神井川があり、天然の要害となっている。城の東部は一部、都立石神井公園として整備されていて、外郭北東部は氷川神社となっている。
城の南にある三宝寺は、太田道灌が東方の地から移築したもの。新編武蔵国風土記稿 では、「氷川神社及び三宝寺境内なり、東西67町南北3町計」と記している。1町=109mとすると、東西7303m、南北327mとなる。周辺には家臣らの屋敷があったと考えられているため、城域はそれ以上の三万坪ほどあったと思われる。 石神井城から南西約600mに愛宕山塁があるが、そこまでは及ばない。
築城について
築城年は定かではないが、室町中期頃にはその原型があり、鎌倉時代以降、名族・宇多氏、宮城氏、の館が構えられていた場所に、現在の東京都台東、文京、豊島、北、荒川、板橋、練馬、足立区を領した豊島氏が城郭を築き、石神井城となったと言われている。
以後、豊島氏の本拠となり、1349年、豊島氏は石神井一帯の支配を開始した。
1368年、平一揆で豊島氏が上杉氏と対立し敗れると、関東管領上杉氏に、石神井を含む所領を没収された。 27年後の1395年、豊島泰宗に変換されている。
太田道灌が攻略
1473年、長尾景春の乱にあたり、豊島泰経と、その弟泰明は、景春方に与党した。対して扇谷上杉氏は主要拠点の江戸と川越を、豊島氏の石神井城、練馬城で遮断されたため、その攻略を急いだ。 4月13日、豊島泰明守る平塚城(石神井支城)が放火され、上杉定正家宰・太田道灌からの攻撃を受けた。 翌14日、後詰めとして泰経は石神井から出兵し、6km離れた江古田、沼袋が原で太田道灌軍と戦った。当初、そのまま撃破し、江戸城へ進軍する予定であったが、豊島勢は太田軍に散々敗北し、石神井城へ退いた。 城に迫る太田軍は愛宕山に付城を築き、布陣。4日間対峙した後、4月18日、石神井城を破却する条件で和睦交渉が行われたが、泰経が城を明け渡さなかったため、太田軍が再度城を攻め、外郭を占拠した。これに石神井城残兵は力尽き、夜陰に紛れて敗走し、平塚城へ入城した。(この時既に平塚城が太田軍の手に落ちていた可能性がある) しかし泰経は先の江古田、沼袋が原での戦いで、以下数十人の一門衆を失っており、小勢となっていた豊島勢は平塚でも撃破され、小机城に落ち延びた。(小机城でも交戦があったともされている。)
以後、石神井城は太田軍が接収し、太田道灌の支配下となる
一方、泰経は足立方面へ逃走するも、その後不明。
落城時の伝説
城主泰経には、照姫(=照日姫)という17歳の娘がいて、長尾景光という武将と婚約していたが、江古田、沼袋が原での戦いで景光が討ち死に。その時姫は石神井城にいたが、城での戦況も悪化してくると、本丸北の池へ飛び込み、自殺した。
その時、照姫は景光との婚約祝いとして父泰経から送られた3つの宝石を抱いていたという。
これに殉じて、泰経も、家宝の黄金の馬鞍を白馬に置いてまたがり、同じ池に身を投げた。(池に飛び込んだ順については諸説あり、泰経が先に自殺している可能性もある)
後にこの池が、照姫の3つの宝石に由来して、「三宝寺池」と呼ばれるようになった。
伝説の真相は
伝説は、近代になって生まれた大衆小説、遅塚麗水著・「照日松」がヒットし、小説には無い「黄金の鞍」という要素も生まれて、伝説として広まったものだ。
実際は石神井落城後、平塚城へ逃走しているので、伝説の 内 容 は事実では ないよう 。 しかし、現地に行ってみると、泰経父子を供養する塚まであり、伝説が虚偽であるとは言い切れない。(決着はツカない。)
三宝寺池は、今ではボートで探索できる公園になっているが、かつて、晴天の日に松の梢に登れば池の底に沈んだ泰経の鞍が見えると言われていたそう。現在その松は枯れてしまった。
愛宕山と道灌
太田道灌は、石神井城攻めに際して、愛宕山に陣どったが、そこには愛宕権現の社があった場所で、道灌はそこで神に先勝祈願していたと伝わる。(現在工事中で入れない。) 因みに、愛宕山塁は元来、石神井城の支城であったとする説がある。
木稲荷
三宝寺池に近い南の丘の麓に、大木があり、その根元に稲荷の祠があるが、石神井城の戦いで戦死した人たちを埋葬した跡だとされている。
主郭部の遺構
城の主郭は、現在の都立石神井公園にあり、堀、土塁の遺構が残されている。 土塁は上幅1.7m~12.5m、底幅推定2.9m、それに平行する空堀は深さ6m。 対して外郭には遺構がない。
東西の空堀
西には約270mに及ぶ、空堀と土塁があり、それより東に350mの台地幅が狭くなった所に東西を断つ空堀が設けられている。 西の堀は昭和28年まで、その北部60mまでの部分が土塁ともに現存天守していたが、現在は埋められ、住居がある。 昭和33年の発掘調査では、上幅約9m、底幅約11m、深さ3.5m、東側土塁基底7.1m、の箱堀が確認された。東の堀は、昭和43年の調査で、上幅7m,底幅0.7m、深さ約2.7m、の空堀が確認されたが、土塁の並走は不明。現在、堀は東に折れているが、明治時代までは、さらに南下し、南の低地まで続いていた。台地の付け根にも、「大堀」の小地名がある溝があった。かつて、氷川神社参道にも、城の空堀とみられる溝が存在していた。(詳細不明)
また、三宝寺と道場寺の間で、栗原氏屋敷門前の切通しも、城と関係があると思われる。
※道場寺は、1372年、石神井城主の豊島景村の養子・輝時が、大覚禅師を招いて創建した。豊島氏の菩提寺になり、泰経の石塔もある。
付城説
石神井城は、豊島氏の居城とされているが、遺構の全容が明らかではないこと、太田道灌状の中に「対の城」という記述があることから、軍事的使用を目的とした付城、または詰城である可能性がある。居城は別にあった、もしくは城下に居館があり、普段はそこで過ごしていたとも考えられる。
発掘調査
昭和32年の調査で、城域から柱穴、陶磁器片二枚が発掘された。 東には「大門」との地名があるため、門跡の可能性もある。。石神井公園中の主郭は、1998年~2003年まで、6年間調査が行われてきた。内郭、主郭共に堀、土塁を検出している。 中には、人為的に埋められたとみられる箇所もある。 内郭からしゅつどした遺物は、かわらけ、陶磁器、瓦、小刀、砥石、灯明皿、石臼、焼米釘、が報告されている。 しかし、樹木を避けて調査されているため、まだ調査区域は内郭の一部に過ぎない。また、土層の攪乱によって、建物跡の検出は難しくなっていたり、公園の整備、城域住宅化によって今後の調査は期待できないだろう。