長篠合戦の歴史を紹介します。

長篠合戦の始まりと勝頼侵攻

1575年、織田信長が本願寺、高屋城の三好康長への攻撃に動き出した。
これに足利義昭側近の六角承揁が勝頼に支援を求めたという。

2年前(1573年)、武田勝頼は父・信玄の急死により西上作戦を中止したため、織田軍の反織田同盟国への侵攻を許してしまい、浅井や朝倉が滅亡するという事態が起きた。この一件から武田氏は面目を失った。
そのため今回の要請を受けて直ぐに挙兵し、名誉挽回を図った。
早速、勝頼は元亀3年に中止した西上作戦を再開し、天正3年3月下旬、三河国徳川領足助口を侵攻した。
織田領ではなく徳川領を攻撃したのは、強大な力を持つ織田信長を刺激したくなかったからだと考えられる。また、信長は三好康長と交戦中であったため、織田軍が徳川領に援軍へ来ることができない期間を選んだとも思われる。
勝頼は信玄の三回忌法要を済ませてから甲斐を出陣(重臣・内藤昌秀に4月12日までに軍を率いて甲府に入ることを下知している)し、4月15日先陣隊が足助城を包囲して足助城主鱸氏を降伏させた。(先陣隊と勝頼本隊は三河作手で合流したか。)
足助城には下条信氏を配備され、各所の徳川支城へ進軍。浅賀井、阿須利、八桑、大沼、田代城は足助落城の報を受けて自落した。この時、徳川両国の3分の1が武田軍の手に落ち、略奪、放火によって三河南部は荒廃した。
次いで、勝頼は石川数正守る岡崎城を落とすために軍を三河中央へ進め、岡崎町奉行の大岡弥四郎をはじめとし、松平新右衛門、小谷甚左衛門尉、倉地平左衛門尉、山田八蔵、石川修理亮春重(徳川家家老)を調略。このまま岡崎城攻撃が実行される計画であったが、大岡弥四郎の内通が山田八蔵の密告によって徳川派中で露見し、弥四郎一派が処刑されてしまう。
勝頼は岡崎攻略を断念。その後は東三河の攻撃に転じ、菅沼貞盈守る野田城を夜襲して攻略(城兵は武田方山県昌景軍の旗を見ただけで逃走した)。そのまま二連木城を攻略し(城兵は武田方山県昌景軍が搦手に回ったのを見て逃走)、4月29日には吉田城へ進軍した。
ところが、徳川軍によって二連木城を奪回されてしまい、十分な兵力で吉田城攻略に挑むことができなくなってしまった。勝頼は吉田城攻略を諦めて城下を焼き討ちにするのに留め、撤退。長篠城へ向かった。
因みに、吉田城には家康率いる2000人の徳川軍本隊が籠城していて、勝頼にとっては家康を捕らえる好機だったが家康を取り逃がしてしまった。 勝頼は、再び家康本隊を呼び寄せるため、宝飯郡橋尾の用水堰を破壊して挑発したのだが、その年に洪水が起こり、辺りの田畑は大凶作を迎えたという。


吉田城攻略を諦めた武田軍はついに天正3年5月1日、長篠城に至り、医王山に陣を構え徳川方・奥平氏、松平氏らが籠もる長篠城を15000の兵で包囲した。
仕寄りを行い徐々に城へ接近し、各所に金堀を入れた。
また、天神山、鳶ヶ巣山砦(武田信実)、中山砦(那波無理助)に軍を展開し、各所に付城を構築した。
長篠城は豊川と宇連川の合流地点の断崖絶壁に立つ堅城だったが、僅か500の城兵では歯が立たず、次々と郭が制圧され、本丸背後の野牛曲輪まで追撃された。
また、食糧庫が消失してしまったため、兵糧難も深刻だった。

鳥居強右衛門の活躍

この事態に、城方が鳥居強右衛門を援軍要請使者として岡崎に派遣した。
6月14日夜に城を脱出し、武田軍の目を掻い潜りながら豊川を泳ぎきり、3〜4KMを踏破し、15日早朝に雁峰山で狼煙をあげて脱出を長篠城兵に知らせた後、岡崎に到着した。
強右衛門は家康に援軍を要請したが、その時徳川が動員できる兵は5000〜6000ほどしかなかったため、家康が織田信長に協力を求めた。
信長は、当時戦国最強の武田と争うのには、鉄砲が必要だと考えたが、梅雨時に鉄砲を使うのにはリスクを伴うため、合戦をためらっていたという。
それでも、盟友・家康のために3万余の軍を率いて三河に入る支度をした。
この時信長は三好康長と交戦中であったため、勝頼は「信長の援軍は来ない」と思い込んでいたが、信長は4月19日に高屋城を制圧し三好康長に勝利していた。28日頃には岐阜に到着していたと考えられる。
熱田神宮で戦勝祈願をした後、信長は翌14日にあっさり家康と合流した。

強右衛門は家康と援軍を確約した後、武田兵に扮して長篠に直帰した。
しかし、6月16日、長篠城への帰路、武田軍に看破され捕らえられてしまう。
磔にされ、城に向かって「援軍は来ないから開城するように」とに伝えるように脅されたが、
それでも強右衛門は、「信長は岡崎まで御出馬しているぞ。信忠殿は八幡まで進出した。先手は一之宮、本野ヶ原に満々と布陣している。家康と信康は野田に移られた。城を堅固に守り抜け。あと3日のうちに運が開けるぞ」と、数万の援軍がもうすぐ到着することを伝え、城兵を激励した。強右衛門はその場で刺殺されてしまったが、「強右衛門の死を無断にしまい」と、長篠城内の士気が大いに高まった。

強右衛門の、十字架にかけられながらも武田氏の脅しに屈せず城兵を励ましたその姿に徳川方の武将は感服し、落合佐兵次は、強右衛門の磔の様子を自らの馬印に描かせたという。

織田徳川連合軍の到来

強右衛門に勇気づけられた長篠城兵は籠城を継続し、約500の寡兵で武田軍15000人に奮戦。その後、終戦まで全21日間耐えることとなる。

一方強右衛門と援軍を確約した織田、徳川両軍は岡崎で合流し、38000人(諸説あり)の大軍を率いて16日、牛窪城、17日、野田原城、18日には長篠城より5.3KM離れた極楽寺山に到来した。
信長は極楽寺山に、家康は弾正山に、織田徳川麾下は連吾川沿いに陣を置いた。

挑発

織田信忠は父・信長が布陣した極楽寺山より約1KM離れた新御堂山に陣を構えた。 織田徳川連合軍は、武田軍をおびき寄せるため、3万の兵を窪地(高松山から連なる丘陵の背後)に散らばらせて隠し、兵を武田川側から少なく見えるようにした。
そしてこれを見た武田軍陣営では、主戦論(この機会に織田軍と交戦)と、撤退論(裏に織田軍の謀略があるとみて撤退)で分かれ、意見が合致せずにいた。
軍議では主に山県、内藤、馬場、原、小山田等の重心層は撤退を主張。 しかし武田勝頼を含む一部の家臣は主戦論を主張し、結局、有海原まで進出。織田軍と一戦交えることになってしまった。
一説には、武田家臣・長坂光堅が織田軍と内通しており、長坂光堅が主戦論をそそのかして勝頼を説得したとも言われている。

小山田昌成率いる3000の兵を長篠城牽制に残し、 21日、早速、武田勝頼は滝沢川を越えて30町(約3KM)ほど進出し、12000の兵を西に向けて13箇所に分散して配置した。
両軍は連吾川を挟んで約500Mの距離で対峙。この時の武田軍の鶴翼編成を下に記載しておく。
右翼 中央 左翼
馬場信春 小幡憲重 内藤昌秀
土屋昌続 小幡信真 原昌胤
一条信龍 武田信豊 山県昌景
真田信綱 武田信綱 小山田信茂
真田昌輝 望月左衛門尉 加藤景忠
穴山信君 安中景繫 跡部勝資

長篠合戦

武田進軍の由を知った織田徳川軍は3重(諸説あり)ともいわれる馬防柵を築き、鉄砲を配備した3部隊を柵外に配置し、武田軍を挑発。
そして日の出に合わせて長篠合戦が始まった。
武田軍が馬防柵目掛けて馬入り(諸説あり)し、大戦となった。
織田軍は1000丁の鉄砲で迎撃した(因みにこの時の鉄砲奉行は佐々成政、前田利家らが務めた)が、武田軍の鉄砲隊は全く敵わず、撃退された。この時織田軍が「三段撃ち」を行ったことは有名。
命懸けで馬防柵を突破した武田方部隊も、後続部隊が鉄砲の餌食となり、悉く撃破された。

酒井忠次の奇襲

長篠城救援のため、酒井忠次率いる鉄砲500丁を備えた部隊が山間を抜けて武田方付城を奇襲した。
20日夜、信長は徳川方酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた約2,000の兵を選出して酒井忠次に率いさせ、鉄砲500丁、金森長近ら検使を加えて約4,000の別働隊を組織し、武田付城への奇襲を命じた。
別働隊は密かに武田軍を迂回して豊川を渡り、南側から進み、16日の早朝には長篠城包囲の付城、鳶ヶ巣山砦を背後から強襲した。
鳶ヶ巣山砦には、4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦があったが、全て落とされる。主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友などの将が戦死。
これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援した。さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井隊は追撃し、有海村に滞在していた武田軍まで撃退したことによって、設楽原に進んだ武田本隊の退路を塞いだ。 そもそもこの作戦は、20日夜の合同軍議中に酒井忠次が考案したものであったが、信長からは「小細工は用いるに非ず」と罵倒され、却下された。
しかし、信長がこのような対応をとったのは、作戦が武田軍に漏れるのを恐れてのことだった。
軍議の終了後、信長は忠次を密かに呼んで、「そなたの発案は理にかなった最善の作戦だ」と忠次の策を褒めたたえ、作戦を実行するよう忠次に命じたという。

武田壊滅

しばらくして両軍本隊が衝突し、6時間の激闘で武田軍はほとんどの重臣(原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守、内藤昌秀、馬場信春など)を失い、膨大な損害を受けた。
まだ残存する者は武田陣営に退却し、勝頼護衛のため奮戦するも、織田軍による追撃によって総崩れになった。

両軍損害

両軍死者は15000人とされている。その内訳は、連合軍5000人、武田軍10000(一説には1000人弱)だ。
武田軍の死者の多くは連合軍による追撃戦によるもの。特に馬場氏ら殿軍の被害が大きかったと考えられている。
対して連合軍の死者の死因の多くは、馬防柵を超えた武田軍の攻撃によるものだ。(山中に逃げ込んで飢え死にした者、河川に転落して溺死した者もいた。)

武田軍の退却ルート

午後2時、勝頼は家臣・馬場信春の進言によって退却を決意。酒井忠次らの奇襲によって長篠方面の退路が塞がれていたため、武田軍は出沢(長篠城から北西に約3KMの地点)へ退却した。その道中で真田兄弟、豊川岸で馬場信春が討ち死にした。

勝頼逃奔

武田軍は多くの家臣、兵を失い、敗走した。勝頼も5月21日に命からがら長篠から離脱。
10日間信濃に駐留した後ようやく6月2日午後6時頃に甲府に到着した。(この時海津在城中だった武田家臣・春日虎綱は、長篠敗戦の一報を聞き、急遽甲府に駆けつけて勝頼を出迎えたという。)

勝頼は三河方面軍の再編成を急いだ。

以上が長篠合戦の歴史。これから本題に入って、合戦にまつわる真説について掲載します。



織田軍が使用した鉄砲の数量

岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫本の「信長公記」(信長の側近・太田牛一編纂)は、「千挺計」と書かれた所の肩に三が書き加えられていて、「三千挺計」と改訂してある。
池田家文庫本を写した内閣文庫所蔵の信長公記にも、「千挺」の前に「三」 を入れ込み、「三千挺」と改訂してある。
これには、
後世に「甫庵信長記」(太田牛一著作の独自の見解を入れた信長の伝記で、長篠の戦いでの鉄砲の数量を3000と記してある)を読んだ人が書き加えた
と言われている。
つまり、長篠の戦いで織田軍は1000挺ほどしか鉄砲を使っていなかったとみられる。
しかし、300挺以下だったという説などもあり、真相は未だ分かっていない。

※信長公記で記述されている酒井忠次奇襲隊装備500挺と佐々成政隊装備の1000挺(もしくは3000)は別々である可能性も。

戦いに織田信長は細川藤考に鉄砲100丁、筒井順慶に鉄砲50丁を装備した足軽隊を、それぞれ負担させているので、おおよそ150挺以上の鉄砲を 利用していたことは間違いないだろう。

織田軍の鉄砲

織田軍が長篠合戦において使用した鉄砲は、二匁五分筒くらいの大きさが多くを占めていたが、7匁程のものもあり、大きさは様々。緊急で寄せ集めた ことが分かる。

馬防柵は柵?

織田軍は、武田軍の騎馬隊の攻撃から身を守るために柵を築いたと言われているが、実際、柵だということは分かっていない。
信長公記などの資料では、「身隠し」といわれるものを建造した事が記されていて、信頼できる史料で柵だという事は書かれていない。
確かに柵だったら身を隠す事はできないし、武田軍方の鉄砲に対して無防備すぎる。
そのため、柵ではなく竹束や盾だった可能性もある。
しかし実際、信長が諸国の兵に動員令を発令した際、兵1人につき柵木1本と縄を持参するように命じているので、通説通り木柵であった可能性が高い。 また、有名な長篠合戦図屛風でも柵が描かれているが、この絵図は後世の成瀬氏のオリジナルの屛風絵なので、この絵図の情報を過信する事はできない。

土塁と堀

古戦場には土塁にみられる遺構があり、馬防柵と共に堀や土塁を築いたとも言われることもありますが、これは元々の地形であった可能性や後世に造られた可能性が高い。
小規模な城郭(陣城)であったという説もある。

武田軍は騎馬で突撃したのか

過去の合戦で武田軍が騎馬による突撃を行っているため、長篠の戦いでも騎馬攻撃が行われたと言われているが、徒歩での攻撃だった可能性もある。
織田軍による柵(または竹束など)が並べられている中、わざわざ騎馬で攻撃しただろうか?
さらに、「甲陽軍鑑」は、設楽原が騎馬には不向きな地形であったことが書かれていて、殆どの兵が下馬して戦ったとしている。
そもそも、ルイスフロイスの「日本史」には「日本人は下馬して戦う」と記されていたりすることから、戦国時代、乗馬での戦いは無かったとする説もある。

三段構え(三段撃ち)の真説

織田軍は、円滑に鉄砲を射撃できるよう、縦三列に並び、一列目が射撃中に二列目、三列目が支度をして入れ替わる「三段撃ち」という戦法をとったことも有名。
しかし近年、この三段撃ちの通説に異説が唱えられている。
そもそも三段撃ちは西洋でよく行われているが、円滑に射撃するには訓練を要する。急遽集められて鉄砲の経験が浅い織田軍の雑兵にこの戦術が実行できたのだろうか。
三交代で連射したことは多くの史料に描かれているが、「縦三列」ということは書かれていない。そのため、「横三部隊」だったという説が唱えられている。
しかし、この三段撃ち(三段構え)は、信長の伝記・信長記がもとになっていて、信長公記などの優良な資料には描かれていないため、信憑性にかけている。そもそもこんな戦術は行われていなかったとする見方も広まっている。
また、武田軍が集中的に突撃してきたので、入れ替わりで射撃せざるをえなかった可能性もある。

織田信長が多用した鉄砲

織田信長は鉄砲に興味を示した。と言われている。学校の教科書を読むと、特別、信長が興味を持っていたというように書かれていたが、実際は信長だけではなく、武田勝頼も興味を示していた。
ただ、堺などの貿易港を有する織田と違い、港を持たない武田氏は玉薬、弾丸が確保できなかったため、多量の鉄砲を用意できなかったのだ。
実際、信玄のころには城和泉守などの鉄砲隊を編成したという記録もあることから、武田氏も鉄砲に興味を示していることが分かる。

武田軍の敗因

武田軍は鶴翼の陣を構えて合戦に挑んだ。鶴翼には、中央部隊が敗退すると両翼部隊が取り残され、陣形が崩れてしまうという欠点がある。
しかし武田軍の中央部隊(武田信廉など)が早期退却してしまったため、両翼の武将らが大損害を被り、結果的に大敗を喫した。
また敗因として、連合軍の大量の鉄砲による白煙、覇音に、戦線の状況が理解できず、先鋒部隊ないし両翼部隊が無駄な突撃を繰り返した為だとも言われている。

信玄三回忌法要

勝頼は4月12日、父・信玄の三回忌法要を済ませてから長篠へ出陣した。
この「三回忌法要」は、導師を春国光新、副導師を快川紹喜がつとめ、武田氏館(躑躅ヶ崎館)で行われた。信玄の棺の周囲に喪主勝頼、武田信豊(信玄甥)、穴山信君(信玄婿)、仁科盛信(信玄五男)、葛山信貞(信玄六男)、望月左衛門尉(信玄弟)、武田信綱(信玄弟)、一条信龍(異母弟)、などの武田親類が集まり、盛大に実施されたという。
信玄の位牌は信玄孫・武王丸信勝が持ち歩き、野辺送りした。この時、道の両側に虎落を設置していて、周りからは見えないようにしていたという。
なお、山県昌景を高野山に派遣し、信玄の位牌を奉納させたという。昌景は3月6日に高野山成慶院に参拝している。

長篠城の縄張り

長篠城は、長篠城は豊川と宇連川の合流地点の舌状台地にある梯郭式平城の堅城。
河川が水堀の役割を果たし、その水流が形成した断崖絶壁が城壁代わりになっている。
本丸は突き出した台地の先端部分(河川合流地点)に位置しているため、渡川し崖を登り、直接本丸を攻撃することは 難しい。
また、陸続きの北側も堀切で分断され、二の丸、三の丸、弾正曲輪、杷城郭と二重の堀が構えられている。

堀跡


石碑



両軍兵数

両軍の兵力については謎が多い。
通説では連合軍38000、武田軍15000とされているが、連合軍17000、武田軍8000とも言われている。
武田軍については、甲陽軍鑑に騎数9121と記されている。これを信じれば、通説の15000にはならないはず。
通説を100%信じることは出来ない。

謎に包まれる長篠合戦

まだまだ、馬防柵のことや鉄砲のことなど、謎に包まれている部分がある。

参考文献

検証長篠合戦
2015年
平山優
吉川弘文館

武田勝頼 試される戦国大名の器量
2017年
丸島和洋
平凡社

信長軍の合戦史
2016年
日本史資料研究会
吉川弘文館

武田氏滅亡
平成29年
平山優
角川選書

地図と読む 現代語訳 信長公記
2019年
太田牛一
KADOKAWA

武田三代
2019年
平山優
サンニチ印刷

図説 真田一族
平成27年
丸島和洋
戎光祥出版

年表帖 明智光秀・織田信長一代記(下巻)
2020年
ユニプラン編集部
ユニプラン

武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る
2022年
平山優
PHP新書

東国武将たちの戦国史
2021年
西股総夫
河出文庫

歴史人 武田三代 栄華と滅亡の真相
令和3年
後藤隆之
ABCアーク


参考WEBページ

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/長篠の戦い

刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/7124/

織田軍本陣