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天正三年、長篠合戦で織田軍に大敗を喫した武田勝頼は、領土回復のため北条氏が統治する上野国へ攻勢を強めた。
上野国攻撃には、武田信玄に「我が両眼の如し者」と言わしめた智将である武田重臣・真田昌幸が任された。

風林火山の威圧


武田軍が上野国へ圧力を強めると、天正七年、北条方の不動山城、厩橋城、今村城が武田方に介入した。
さらに、武田勝頼は佐竹氏と甲佐同盟を結び、上野を東西から攻撃する策に出た。
武田軍の進撃と、佐竹氏による東からの牽制により、上野の北条方諸城が次々と孤立。上野国は混乱に陥ったという。
勢いをつけた甲佐連合軍は武蔵国への進軍も開始。佐竹方の由良国繫による新田金山城攻撃は上野の武将を震撼させた。

それから、武田VS北条の上野戦線は激化していくのである。
POINT

武田氏は御館の乱を経て北条氏と敵対(武田勝頼が、北条と同盟を結んでいるのにもかかわらず、北条と敵対する長尾景勝を支援したため)。上野、駿河国境付近で緊張が高まっていた。


頭脳戦


上野の統治、戦闘を任された昌幸は、天正八年、岩櫃城に入城し、叔父・矢沢頼綱と共に東上野攻略に動き出した。
昌幸の次の狙いは東上野の要衝・沼田城にあり、軍事、交通の要地を押さえる事により東上野を席巻できると考えていたようだ。
沼田城には北条方の用土新左衛門尉らが配備されており、加えて、断崖上に築かれた沼田城を落とすのは容易ではないと判断し、昌幸は調略による沼田攻略を目論んだ。
先ず、沼田城を孤立化し北条方の補給を断つため、背後の三国峠を押さえたうえ、北条方支城の猿ヶ京城と沼田城の中間地点に位置する小川城の調略から始めた。
小川城主の小川可遊斎(赤松則村の末裔と伝わる)は、3月ごろ、昌幸の調略に応じて武田方に寝返った。
隆盛した武田軍は、その後も名胡桃城(鈴木門水)、猿ヶ京城(知高左馬之助義隆)を開城させ、沼田城を孤城とした。
POINT

昌幸は猿ヶ京城を落とすため、城内の中沢半右衛門、森下又右衛門を調略し、武田方に引き込んでいた。そして、昌幸の密命によって中沢半右衛門は城の曲輪に放火し、城を焼失させたという。(天正8年5月4日)
昌幸は、中沢半右衛門に10貫文を恩賞として与える約定をし、厚遇している。

さらに、沼田城将の金子美濃守、渡辺左近允、西山市之丞の三人が武田方に寝返り、沼田城内の北条方を追放した。
裸城となった沼田城は、昌幸の説得により、城主用土新左衛門の沼田地域安堵を条件に、遂に沼田城は開城したのである。
昌幸が新左衛門を保護し西上野が安定すると、天正8年9月下旬、武田勝頼が東上野に出陣。
赤城山西麓で戦闘を仕掛け、阿曾城、長井坂城、津久田城、猫城、見立城を占拠した。
さらに10月、由良氏が籠る新田金山城を攻撃し、館林、新田を荒らし回ったという。
上野東部を焦土化する作戦だったとも考えられる。
そのうえ、上野東部に位置する善城を落とし、河田備前守や大胡民部左衛門を打ち取るという快挙を成した。
その後も、天正七年末から翌年春まで、武蔵国への攻撃を仕掛け、北条氏を苦しめた。


武田氏は長篠合戦で大敗を喫し、東海方面で悪戦苦闘。滅亡の危機にさらされていた中、名将・真田昌幸が知略をもってそれを打開し、信玄時代を越す、武田氏最大の版図を築いたのである。

無駄な犠牲を払わず、調略によって上野侵攻の切り口を開いた、昌幸の軍略は評価すべきものだ。

「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」孫子の兵法より。


父の軍略


昌幸が行なった"調略"こそが、真田家が得意とする戦術であった。
かつて、武田信玄が村上氏の砥石城(信濃国)を攻撃した時、信玄は武田軍の強さを過信して敗北。その時、家臣であった昌幸の父・幸綱が調略によって砥石城を落としたことがあった。

沼田城の重要性


沼田城は、立地に注目すると、真田昌幸が目を向けた理由が分かる。
城は、舌状台地西端の断崖上に位置し、北に薄根川、西に利根川、南に片品川が流れ、急峻な岸を持ち併せる、防御上のメリットも大きい占地だ。

上野の統治


天正9年3月、かつての城主である沼田景義が、父親の顕泰と共に沼田城を武田から取り戻すため挙兵する事件が起こった。
この一件は顕泰の死去(昌幸が抹殺したとも言われている)によって事態は落ち着いたが、景義はまだ沼田城奪回を諦めてはおらず、由良国繫を頼って女淵城に入り、渡良瀬谷から利根郡へ、武田に攻撃を仕掛けた。
当初、景義率いる由良勢が優勢であり、真田昌幸の叔父、矢沢頼綱を破り、片品川を突破。藤田信吉(用土新左衛門。昌幸の命で改名した)、海野輝幸らとも交戦。これには昌幸も密かに沼田城に駆けつけ、景義勢を追い返した。景義も昌幸の手によって打ち取られた。
因みに、景義は摩利支天の再来とも言われた猛将であったが、昌幸はこれに巧みな野戦をもって勝利したという。

凶候


その後も北条方、由良とは不和が続き、戦闘が激化していた。
それでも、昌幸らの活躍によって、上野での攻勢は保てたが、東海地方での戦線は悪化する一方であった。
加えて木曾氏らの裏切りなども重なり、武田氏は滅亡への一途を辿る。