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1582年に起こった、上田城での合戦、「上田合戦」について、掲載します。

沼田領問題


天正壬午の乱にて、徳川、北条氏が甲駿同盟を結ぶと、その際、大名間の国分で、徳川から上野国沼田吾妻を、北条からは、乱中に徳川から奪取していた信濃国佐久郡を、双方交換することで決定した。
しかし、北条が受け取る上野国沼田、吾妻の領地の大半は、徳川方国衆の真田昌幸が領有しており、昌幸は、大名間での勝手な配分による、北条への沼田引き渡しを拒否した。
徳川からは、昌幸に替地の贈与を提案したが、真田家代々の墓が沼田にあること(?)、沼田は元来、真田が独力で確保し、守り抜いた領地であり、徳川から拝領したものではないこと、を理由に、頑として徳川の提案に乗らなかったため、ここに沼田領問題が生じた。

沼田、吾妻での戦闘


1582年10月27日、甲駿(徳川北条)で、正式に和睦、同盟が成立し、翌28日には和睦覚書が作成され、国分の支度が行われた。
しかし、依然として真田昌幸は沼田を渡さず、沼田方面の支城に兵を入れ、親族、家臣を配備し、抵抗する姿勢を示した。
同25日、既に北条は、強引に沼田領を得るため、北条氏邦を将とする鉢形衆を動員し、上野国真田領へ侵攻した。真田軍、北条軍は、森下で交戦。沼田までは進出できなかったが、北条が勝利を収めた。
さらに、北条氏は、北条氏綱ら5000人の軍を、信濃の北条勢に加えて、上野国吾妻郡の大戸城主・大戸入道に岩櫃城(真田方支城)攻めを命じている。
だが、岩櫃城攻めは、真田昌幸が大戸入道を調略したことによって実行されなかった。このため、北条氏は大戸氏の討伐に向けて、多目周防守を大将に冨永主膳ら約5000人の軍を、再度吾妻へ差し向け、大戸城周辺で大戸入道とその一族を破り、大戸城に撤退した残党までも撃破し、大戸城(手子丸城)を落とした。(この時大戸入道は自害)これを吾妻制圧の足掛かりとしようとしていたのだ。
この事態に、真田も黙ってはおらず、天正10年10月下旬、昌幸の嫡男・真田信幸が、家臣の出浦昌相、鎌原重春、湯本三郎、横谷左近、丸山綱茂ら800の兵をもって岩櫃城を出陣し、大戸城に近く、北条軍と温川を挟んで対峙する仙人窪に着陣した。
この時の信幸(後の真田信之)は、卯花威の鎧に星兜を纏い、真田の祖である海野家に伝わる備前長光の太刀と十文字の槍を持ち、馬廻りに富沢備前守、小草眞三郎を従えていたという。
仙人窪では、湯本三郎ら先陣隊を元丸に、進むよう命じ、自身は300人を率いて森に潜んだ。
北条軍は、真田軍が小勢だったため、仙人窪へ攻めかかった。すると、湯本ら先陣隊は北条軍と競合った後、敗走を装って戦場を退いた。北条軍はそのまま追撃し、信幸本隊と交戦。だが、湯本ら先陣隊の退却は北条軍をひきつけるための策で、出浦昌相ら真田別働隊が北条軍の背後を攻撃。さらに、唐沢玄蕃率いる50人の真田軍別働隊が北条軍の側面に回り、敵から奪った金の馬鎧を身に着け信幸の影武者となり、北条軍を混乱させたという。冨永主膳軍は真田軍に完敗し、大戸城に撤退した。
一方、合戦に勝利した真田軍は、大戸城下に火を掛け焦土化し、その勢いで大戸城に迫った。
真田軍一場茂右衛門は北の丸から、出浦昌相部隊は大手口から、それぞれ攻めかかり、激戦となる。木戸口を落とした一場は、逃走する北条勢を17人打ち取り、手薄だった北の丸へ侵入。小屋に備蓄してあった北条兵の食料を盗み、食事をとって本丸へ突入した。
大戸城は陥落し、北条軍は800人を失う被害に遭った。
この大戸城の戦いによって、吾妻制圧の糸口を失った北条は、この後も沼田攻めには苦戦する。これが真田と北条、徳川の関係を悪化させ、上田合戦を引き起こすこととなる。

上田合戦始まる


天正11年、中旬、徳川家康は、豊臣秀吉と対立すると、北条からの援軍が必要になった。
しかし、沼田領問題は未だ解決に至ってはおらず、北条との関係強化のため、問題解決が急務となった。そこで、家康は昌幸に再度明け渡しを求め、北条からも、北条氏邦の使者が沼田へ送られたが、昌幸は、使者を切り捨て抵抗。7月、家康は、真田と同じ小県の国衆で、昌幸の幼なじみ、室賀正武に、昌幸を暗殺するよう指示。だが、室賀一門の、室賀孫右衛門が昌幸と内通しており、昌幸は事の次第を察知。逆に正武を上田城(真田本拠)に招き、書院に通された室賀正武と、その家臣、桑名八之助、相沢五左衛門を、真田家臣・長野舎人、木村渡右衛門が襲い、返り討ちに。
徳川、室賀の昌幸暗殺計画は失敗に終わった。
昌幸は、この一件から、徳川と断交し、敵対していた上杉氏に従属した。
当時、真田は信濃国小県郡全域を保有していて、徳川からしては敵方に寝返られるのは痛手であった。そのため、家康は真田討伐の軍を発し、早期に対処する方針を固めた。
天正13年、8月20日、徳川家康は重臣・鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉、芝田康忠を将として、甲斐、信濃の徳川勢 依田、諏訪、小笠原、三枝、松岡、下条氏らを動員し、約7000の軍を編成。(駿河からも岡部信盛が加勢。)
8月26日には小県郡禰津へ進出し、真田本拠の上田城に向けて進軍。
しかし、守勢の真田軍は騎馬200余騎、雑兵1500余人に過ぎなかった。
すぐに昌幸は、上杉に援軍を要請したが、上杉景勝も織田残党の佐々成政や、謀反を起こした家臣、新発田重家との戦いのために信濃の兵力を越後本土へ招集しており、真田を護衛する程の余力は無かった。 そこで上杉景勝は、真田昌幸次男、真田源次郎信繫を人質に取る代わりに、北信濃で15歳以下、もしくは60歳以上の子供、老人をかき集めた約100人の軍を急ぎ編成し、信濃国海津城へ派遣した。 (その後馬場左近ら信濃駐留中の上杉勢も真田救援へ向かったが、台風の影響で停滞する。) つまり、真田領へ足を踏み入れた徳川軍七千に対し、真田はせいぜい千数百人で挑むこととなり、上杉から送られた寄せ集めの100人もあてにはならず、ほぼ独力で戦うことになってしまったのだ。

上田城の戦い


昌幸は、小諸の深沢川に着陣した徳川軍に、大かまり(忍び集団)を動員して奇襲を仕掛けた。
しかし、徳川軍がこれを察知していたため、撃退され新張(東御市)まで追われてしまった。
勢いに乗じて、徳川軍は禰津古城に迫り、禰津氏(真田方国衆)と戦い、これを破っている。禰津軍は城を捨てて上田城へ逃げ去ったという。
真田領が侵食されていく中、昌幸は、本拠地上田城での決戦を計画。 上田城総構、二の丸に千鳥掛の柵列を築き、真田信幸を遊軍として砥石城へ入らせ、矢沢城には矢沢頼綱を入らせた。 用意を周到にしたうえで、徳川軍が上田城へ迫る前に遊軍の信幸が徳川の横腹を突いて先制攻撃したとも言われている。

対して、徳川軍は、北国街道を通って上田盆地に進出。その後、8月2日、神川まで進んだ。すると、真田兵は徳川軍に向けて高砂を謡い、挑発した。
「高砂や
この浦船に帆を上げて
月もろともに
出潮の
波の淡路の島影や
遠く鳴き尾の沖過ぎて
はや住之江の着きにけり
はや住之江に着きにけり
四海波静かにて国もおさまる時たつ風
枝の淡路の島影や
遠く鳴き尾の沖過ぎて」
挑発に乗った徳川兵は、次々と上田城総構に乱入する。対する真田軍は、小競り合いながら少しずつ後退していき、二の丸へ敵をひきつけた。
そこで、総構内の民家や武家屋敷、寺院から伏兵が、深く攻め入った徳川軍に向けて火縄銃を釣瓶打ちかけたという。 さらに、昌幸が設置した千鳥掛けの柵が障壁となって、城内から退く兵と、攻め入る後続部隊がぶつかり混乱に陥り、徳川軍は各個撃破された。 この時、逃げ去る徳川兵は城に火をかけて城を燃やそうとしたらしいが、戦経験の乏しい芝田康忠が、まだ城内にいる部隊が取り残されることを懸念し止めたと伝わる。だが彼は後の日記でことのことを悔やみ、早々に城を燃やしておくべきだったとつづっている。
(康忠以外にも、徳川軍の中では戦経験の無い将が多く、総大将鳥居元忠の命令に呼応せず、城攻めを躊躇していたらしい。)
その後、昌幸は、城内に造った暗渠を壊して徳川軍の前進を徹底的に阻止したうえで、増水していた、城に近い神川の堰を切り、退却中の徳川軍の将を溺れさせた。 これにより、この合戦は真田軍の完全勝利で終結し、徳川軍は1300人が討ち死に。真田軍は数十人しか戦死者を出さなかった。
翌日、徳川軍は上田を陣払いし、上田支城の丸子城を攻めるが、これも失敗する。この間に、上杉より援軍が上田に入ったことで、徳川軍は28日に撤退。 小諸城にとどまり、抗戦していた大久保忠世らも、11月には完全に三河へ帰った。
一方、真田は徳川軍の丸子城攻めを知ると、昌幸、信幸、父子は、海野まで打って出て、徳川軍と丸子で争ったが、徳川軍の退却を機に上田まで帰った。 この際、八重原の徳川方付城に攻めかかり、これを落したと伝わる。
以後も、両者は信濃国尾野山城、長久保城、で戦い続けることとなる。

上田城の写真集 おわり