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葛西城について掲載します。

葛西城


葛西城は東京都葛飾区青戸7丁目にある日本のお城です。

葛西の地名


葛西城周辺は「葛西(かさい)」と呼ばれていた。
「葛西」は、下総国葛飾郡の江戸川以西のこと。現在では、東京都葛飾区、江戸川区の全域、墨田区の一部を指す。
葛西という地名は、万葉集抄や我妻鏡、盛長私記に記載があり、1165年の文書にもみられるため、平安時代には存在していたとされている。
中世の書状にも、「葛西庄」や「葛西郡」などという名前で登場している。
万葉集抄では、葛西地域の、太日川(現江戸川)を境に東を葛東、西を葛西と呼ぶとしている。
江戸時代頃から、葛西を、中川を境に東葛西領と西葛西領に分けて呼ばれるようになった。
(東葛西領をさらに「上之割」「下之割」、西葛西を「本田筋」「新田筋」と分けて区別されることもあった。)
また、中世、西葛西には63の村、東葛西には55の村があり、文書などではさらに細かく表記されることもあった。
西葛西の村
本所、中郷、柳島、亀戸、押上、猿江、大嶋、平方、永代島、小名木、海辺新田、八右衛門新田、亀高、平田新田、焙烙新田、又右衛門新田、千田新田、砂村、砂村新田、永代新田、太良新田、中田新田、大塚新田、小梅、須崎、請訑、寺島、小村井、墨田、隅田新田、木下川、大畑、若宮、葛西川、木ノ下、善衛門、淡須、川端、原、渋江、立石、梅田、中原、堀切、小菅、篠原、世継、宝来嶋、青戸、千葉、亀有、砂原、小谷野、他…
東葛西の村
平井、逆井、小松、船堀、宇喜田、長島、桑川、一之江、一之江新田、二之江、内、新堀、松本、前野、伊世谷、篠崎、鹿骨、今井、笹ヶ崎、奥ノ宮、上一色、小松、伊与田、小岩、小岩田、細田、鎌倉新田、曲金、諏方野、柴又、金町、金町新田、飯塚、猿ヶ又、猿新田、中新田、親新田、小合、小合新田、他…
葛西の歴史
2000年前頃、海退に伴う、河川から流れ着いた土砂の堆積によって陸地となった。
昔から肥沃で農耕に適した土地であったため、弥生時代後期から集落が集まっていた。発掘調査では、城域に畑跡が検出されている。
1185年、葛西の総鎮守として「葛西神社」が創建された。
江戸幕府が天領としていた江戸時代では、農民が鉦、太鼓、笛の囃で踊りまわる「葛西踊り(念仏)」が行われ、江戸中期には東京都とその周辺の踊り囃子の祖となる「葛西囃子」が生まれた。

葛西城の立地


城がある葛飾区青戸は、縄文海進、海退を経て、6000年前頃に河川による土砂の堆積によって形成された沖積平野。
城は丘陵上に築かれたが、近年は地盤沈下や開発によって、城跡は海抜0.5〜1mまでに下がっている。(城域の中では、本丸跡周辺が最も標高が高い。)

葛西城は中川に面していて、中川とその自然堤防が天然の要害となっていた。
そのうえ、かつて周辺は湿地帯であったため、敵から攻めにくい環境にあった。
また、青戸は、西に矢切の渡し、南には中川を隔てて古代東海道があり、中世では鎌倉街道下道が通る、交通の要でもあった。
江戸時代、鎌倉街道下道は水戸街道となり、周辺は宿場町として栄えた。
現在も城跡を通過するが、交通量は多い。

青戸


葛西城所在地の「青戸」は、鎌倉時代には既に存在していた地名。
「大津」「大戸」「青津」などとも表記され、“おおと”と発音されることもある。
由来は港で、「戸」は港津を意味する「津」が転訛したもの。
東京湾周辺では、青戸の他に“戸”がつく地名が、奥戸、江戸、松戸、登戸、亀戸、などがある。

青砥


葛西城周辺では青戸と、“青砥”という地名が混在している。
青砥の由来は、葛西城築城前、この地に青砥藤綱という人物の館があったから。
また、鎌倉時代後期、青戸二郎重茂という人が地域を治めていたことにも関係していると言われている。
現在、所在地が青戸でも、「青砥神社」や「青砥駅」、「青砥橋」などがある。
また、同じく青砥藤綱の館跡地説がある神奈川県横浜市金沢区にも、「青砥」の地名が残っている。

なぜ青戸に葛西城が築かれたか


15世紀、上杉氏の代官として菊地三郎左衛門入道が葛西を治めていたが、 当時、葛西がこの地域の政所だった可能性があり、政治的な要地として葛西に城を築いたとされている。
また、青戸が中川や矢切の渡に近く、水運の要衝であることも関係している。
ちなみに、城からは埴輪円筒の破片が出土しているため、古墳に城が築かれたとする説もある。
また、そもそも、文献資料に登場する「葛西城」は、亀有三丁目だったとも言われていて、築城に関しては謎が多い。

葛西城築者


葛西城の築城者については諸説ある。
1, 葛西氏説
葛西氏(下総・武蔵国の御家人、豊島氏の一族)が、鎌倉時代に城館を築いたのが城の起源になったか。
2, 大石氏説
1454年、享徳の乱が起こり、足利成氏と扇谷上杉氏が江戸川を挟んで対立。 その際、扇谷上杉氏の家宰・大石石見守が東からの備えに築いた砦が葛西城か。 享徳の乱は約30年続き、関東では多くの支城が築かれていた。葛西城もそのうちの一つか。
3, 遠山氏説
後北条氏家臣・遠山綱景が、下総国からの備えとして築いた。

葛西城は享徳の乱における扇谷上杉氏と足利氏の勢力圏境に位置していて、足利氏が葛西城を攻めた記録もあるため、本などでは?大石氏説が紹介されることが多く、日本城郭大系でもこれを採用している。 (大石氏が築いた城と、遠山氏が築いた城がそれぞれ別の城だという説もある。)

歴史


享徳の乱は1483年に終結したが、1524年、北条氏綱が小田原から関東攻略を目指し、江戸城(葛西城まで約11km)を落として扇谷上杉領へ迫った。 1525年、扇谷上杉氏家臣・三戸義宣が越後の長尾氏に援軍を求める書状の中で、 「大石々見守方在宿地葛西へ敵取向候」と、敵が向かっていることを伝えたうえ、「万一彼地無曲候者当国滅亡不可有程候」と、万一葛西が落ちた時は国が滅亡するとしている。当時の葛西城の重要性が伝わる一節だ。 その後、葛西城は北条軍の攻撃に耐え、滅亡は免れた。

しかし、1537年、北条軍は再び関東に出陣。すると、すぐに扇谷上杉氏の本拠である川越城が落城した。遂に翌年2月2日、葛西城も北条軍の手に落ちた。 北条氏の狙いは、武蔵下総に進出し、古河公方との接近を図ることだ
。 葛西城には、北条氏によって江戸城代・遠山弥九郎(綱景)が配備され、交通・軍事の要衝として重要視された。
小田原衆所領役帳では1559年、江戸衆らに葛西地域を知行として与えたとしている。

1550年、古河公方・足利晴氏の葛西御座が計画され、1552年、晴氏は妻子を連れて葛西へ入った。
しかし、北条氏は晴氏の隠居と、子・梅千代王丸への家督継承を強要。これに、晴氏が葛西を抜け出して古河城で籠城するという事件が起きた。

反乱はすぐに鎮圧され、北条氏によって晴氏は拘束されたという。 一方、家督が譲られた梅千代王丸は、葛西城にて元服式を行い、「義氏」と名乗った。(式では、北条氏康が理髪役を務めた) 義の字は、当時の将軍、足利義輝に由来。
義氏は4月に関宿城へ入城するまで、葛西に滞在した。そのため、小田原衆所領約帳に、義氏のことを「葛西様」と表記されている。


1560年 長尾景虎が反後北条勢力を結集し、関東へ攻め寄せた。葛西城も制圧され、長尾方・岩村太田氏の支配下に置かれた。
1563年3月 当時の北条家当主・北条氏康は、葛西の忍びの棟梁だった本田正勝に葛西城奪還への協力を求め、成功した場合、江戸・足立は勿論、望みの地を与えると約束した。
さらに3月22日 「葛西要害以忍乗上申付者、為御褒美可被下知行方事...」と、忍びを使って葛西城落とせば、知行と金500貫文(現在の5000万円)を与えることを確約。

3月24日 これに応じた本田正勝は、身元が露見しないように無紋で参上し、北条本隊の太田康資の指揮のもと、忍びを率いて城の裏から夜襲を仕掛けた。早速搦め手の郭を制圧し、矢倉に火を掛けて大手口に潜む太田康資に合図を送ると、康資率いる北条軍が大手から攻め上がり、本丸を落とした。
これにて葛西城奪還は成功し、正勝には約束通り知行が与えられ、800貫で登用されたのち、葛西城在番を命じられたという。
一方で、以前の城主・遠山氏は、長尾勢から葛西城を防衛することができなかった罪として所領を没収されている。(以前は葛西に2048貫15文を領していた。)

1564年、葛西城攻略で軍功のあった太田康資が、遠山弥九郎(綱景)と確執があり、突然、北条の敵対勢力だった里見氏へ寝返る事件が起きた。
これをきっかけに、里見氏と北条氏が下総国国府台で交戦する事態に発展。
葛西地域からも多くの人々が参陣し、大戦となった。
序盤は北条軍の劣勢で、次々と北条方の武将が討死し、先鋒を努めた遠山景綱も死亡。
それでも、北条軍が里見陣に奇襲を仕掛け、逆転勝利を収めた。
この戦いで、葛西城は北条方の前線基地(一説に本陣)として用いられ、陰ながら北条勝利に貢献していた。
しかし、葛西では戦火によって、寺社が焼失するなどの被害を受けたという。
戦に参戦した者の中には、敗れて葛西に移り、葛西地域を開墾して土着する者もいた。

国府台合戦後、1566年、正木時忠が葛西城に放火したという記録や、1569年、武田氏が侵攻し、遠山某という人物が守備にあたったという記録(北条記)があるが、この時期については不明な点が多い。

この頃は北条氏による統治が安定し、城下町の整備や葛西新宿の造営が行われた。

時が流れて1590年、豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出し、20万の軍が関東へ進軍。 江戸、岩村などの北条方支城が、豊臣軍を前に開城する中、葛西城は孤軍奮闘。 しかし、4月下旬、戸田忠次の部隊によって落城した。

この時、飯塚・猿俣・小合・金町・柴俣の村の人々は、共同でお金を出し合って、禁制(安全保障)を願い出たとされる。

小田原征討後、徳川家康が関東に入府すると、家康は巡見の際、葛西城に目が留まり、荒廃していた主郭部を改築し、鷹狩り時の将軍の宿泊所・休憩所として利用することにした。
(葛西は鷹狩の名所で、「鳥溜」「鳥沼」「鷹の手」などの鳥に関係する地名が残されている)
家康は青戸の名主・清水土佐守に命じて城を撤廃させ、荒川七兵衛、水上五衛門を奉行に御殿造りに変えさせた。遂に葛西城は、ここで城としての役目を終え、休憩所として「葛西離館」「葛西御殿」「青戸御殿」などと呼ばれるようになった。家康は青戸の名主・清水土佐守に命じて城を撤廃させ、荒川七兵衛、水上五衛門を奉行に御殿造りに変えさせた。遂に葛西城は、ここで城としての役目を終え、休憩所として「葛西離館」「葛西御殿」「青戸御殿」などと呼ばれるようになった。

初めて、御殿として家康に利用されたのは1605年の10月で、翌月にも利用されている。
1639年、1649年の二度の改修を経て、外には大木が立ち並ぶ東西68m南北92mという大規模な造りになった。
江戸城から、日光街道、水戸街道を利用すれば一直線で訪れることができるというアクセスの良さから、調べられただけでも家康から吉宗までの代々の徳川将軍が56回利用していることが分かった。
西暦 和暦 年月日 出来事と備考
1612年 慶長17年10月 道中宿付(金井文書)に、徳川家康の宿泊予定地として葛西の地名が書かれている
1613年 慶長18年11月27日〜28日 徳川家康、葛西にて放鷹をする
1614年 慶長19年1月17日 徳川家康、葛西に訪れる
1615年 元和元年年10月21日 徳川家康、鷹狩にて葛西に訪れる
1615年 元和元年年11月15日 徳川家康、葛西に訪れる
1615年 元和元年2月26日 徳川家康、葛西に訪れる
1618年 元和4年1月7日 徳川秀忠、葛西辺りで鷹狩を行う
1620年 元和6年1月10日 徳川秀忠、葛西辺りで鷹狩を行う
1625年 寛永2年3月30日 徳川秀忠、葛西で鷹狩を行う
1630年 寛永7年1月11日 徳川家光、葛西にて鷹狩を行う
1631年 寛永8年 徳川家忠、葛西で鷹狩を行う
1633年 寛永10年年2月22日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1634年 寛永11年3月6日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1634年 寛永11年3月13日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1635年 寛永12年9月27日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1635年 寛永11年11月16日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1635年 寛永12年12月18日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1635年 寛永12年12月20日 徳川家光、葛西辺りへ立ち寄る
1636年 寛永13年2月8日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1636年 寛永13年8月22日 徳川秀光、葛西辺りで鷹狩を行う
1636年 寛永13年9月25日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1636年 寛永13年12月3日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1636年 寛永13年1月5日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1636年 寛永14年1月8日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1638年 寛永15年2月13日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1638年 寛永15年4月11日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1638年 寛永15年10月13日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1638年 寛永15年10月18日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1638年 寛永15年12月2日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1641年 寛永18年1月10日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1641年 寛永18年1月25日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1642年 寛永19年8月18日 徳川家光、葛西で鷹狩を行う
1642年 寛永19年11月27日 徳川家光、葛西辺りでで狩を行う
1643年 寛永19年11月26日 徳川家光、葛西で狩を行う
1644年 正保元年2月3日 徳川家光、葛西で狩を行う
1644年 正保元年2月11日 徳川家光、葛西(厳密には中川辺り)で狩を行う
1644年 正保元年11月12日 徳川家光、千住、葛西辺りで鷹狩を行う
1644年 正保元年11月12日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1645年 正保2年3月10日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1645年 正保2年11月29日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1646年 正保3年11月19日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1646年 正保3年1月12日 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う
1647年 正保4年9月20日 徳川家光、葛西辺りで狩を行う
1648年 慶安元年(閏年)1月9日 徳川家光、葛西辺りで狩を行う
1648年 慶安元年(閏年)9月20日 徳川家光、葛西辺りで狩を行う
1648年 慶安元年(閏年)12月6日 徳川家光、葛西辺りで狩を行う
1649年 慶安2年1月4日 徳川家光、葛西辺りで狩を行う
1649年 慶安2年12月9日 徳川家光、葛西辺りで狩を行う
1650年 慶安3年(閏年)10月3日 徳川家光、葛西辺りで狩を行う
1718年 享保4年3月27日 徳川吉宗、葛西辺りで鷹狩を行う
1720年 享保5年3月27日 徳川吉宗、葛西辺りで狩を行う
1725年 享保10年1月12日 徳川吉宗、葛西辺りで狩を行う
1731年 享保16年11月16日 徳川吉宗、葛西辺りで鷹狩を行う
1731年 享保17年2月4日 徳川吉宗、葛西辺りで狩を行う
ちなみに、生類憐みの令の影響で、1650年から1718年までの68年間、利用されていない。

だが、1657年、明暦の大火で被害を受けた江戸城の再建資材の確保のため、取り壊された。

発掘調査




調査年 昭和47 昭和48 昭和48 昭和49 昭和50 昭和51
調査面積(平方メートル) 130 606 140 1372 1069 900

昭和に発掘調査が度々行われている。城跡地は湧水や近世の攪乱が激しく、調査は毎回難航していたようだ。
発掘の他に、レーダーによる地下探査も実施された。
これまで、中世の堀、井戸、柱穴、かまど、円形土壌、方形竪穴状遺構、墓壙、土壙、が検出され、弥生土器、古式土師器、舶戴染付、青磁、白磁、天目茶碗、かわらけ(金箔貼りものものある)、漆器、サイコロ、板碑、天目皿、灰釉皿、擂鉢、オロシ皿、ほうろく、石臼、硯、砥石、古銭、骨、貝、木製品、常滑、灯明、皿、五輪塔、人骨、獣骨、箸、下駄、杭、動物依存体、鉄砲玉、羽子板、将棋などが出土している。

・堀跡の検出から、南北400m以上の大規模な城だったことも判明。

今後の調査の予定は無い。

古銭出土

6次調査では4771枚、5次調査も含めて4988枚の古銭が出土している。 発掘調査報告書を基に円グラフを作った。様々な年代のものがある。↓ これらの銭は、埋納金とも備蓄金とも言われている。 ・亀有一丁目から15000枚の銭が出土したことがあるが、葛西城との関係は不明。

動物遺存体

アカニシ、ヤマトシジミ、ニワトリ、ドブネズミ、馬、猪、シカ、牛、犬、狸、猫、カラス、二ホンジカ、マダイ、スズキ、ヒキガエル、スッポン、サンカノゴイ、オジロワシ、クロダイ、スッポンの骨が出土している。本丸周辺(調査区?区、?区)から多く出土している。

宗教関連の出土物

阿弥陀が刻まれた板碑や、呪符(魔物を追い払うための木札や人形)や斎串(呪いを行う場所の結界を示すもの)と呼ばれる、宗教的な儀式のための物が出土している。
堀やそのほとりに掲げていたとされている。
また、城から多く見つかっているかわらけの中でも、「大こくてん(大黒天)」や、「ふとう(不動)」などと刻まれたもや、梵字入りのものがある。

現在の様子

昭和61年以降、公園として整備されているため遺構は残っていないが、本丸跡周辺は若干起伏がある。
地域には、「城の口」「蔵之内」「家老家」「刑部の内」などの、城に関係する地名が残っている。 本丸跡には環状七号線が建設され当時の面影は残されていないものの、1999年の東京都史跡指定を受けて、案内板や、「青砥藤綱城跡碑」が建てられた。

まとめ
葛西地域の歴史を知ることで葛西城の重要性が分かった。 戦国時代、大名、忍びによる激しい争奪戦が繰り広げられていて、関東の歴史に大きく関わっていました。

おわり