江戸五口の門についての記事です。江戸五口とは、江戸城の見附の中でも特に重要視され、江戸の要となった門のことです。
田安門
田安門の概要
田安門は北の丸に位置する内郭の見附門。古来から「飯田口」「上州口」などと呼ばれる江戸城通路の一つ。江戸五口にも数えられる。 田安の名の由来は、田安明神が祀られた田安台と呼ばれる場所に造られたため。慶長12年(1607年)の改修時にその名が付けられた。 同年の火災で江戸城は被害を受け、田安門は焼失。後に再建されたが、寛永5年(1628)、寛永江戸地震で被害に遭い、損壊した。 翌年、越前福井藩の松平忠昌による補修が行われ、枡形門が築かれた。 その後、1630年、1635年のM6.0の地震、明暦の大火に耐えぬき、1636年の補修を経て今に至る。 現在、江戸城で現存する門のうち、最古の門となっている。
越前福井藩修復
福井藩の補修後、高麗門と櫓門を備えた枡形が築かれ、 田安だけに、たやす く入れない構造になった。 門には豊後の大筒鍛冶大工によって作られた筋金を組みこみ、 高麗門は鏡柱に冠木を貫として差し込む新型構造で築造された。 さらに、櫓門には袖石垣と控え柱の間に番所を設けられた。 江戸五口の一つとして、いかに重要視されたかがうかがえる。 また、かつて春日局、千姫らが住んでいた門内西には、約14000坪の御三卿田安家の屋敷が構えられ、東側には清水家の屋敷が造られた。
現況
渡櫓門は、関東大震災で焼失。その後第一回東京オリンピックを機に復元された。 そして昭和41年1966年、文化財保護委員会による調査ののち、清水門と共に国の重要文化財に指定された。 現在は日本武道館への入り口として使用されていて、実際に潜ることができる。 枡形内渡櫓石垣は切り込みハギ布積すだれ仕上げの石垣を見ることができる。 安山岩が最も多く用いられているが、次いでピンク色の花崗岩も多用されている。ピンクの花崗岩が用いられた門は外桜田門と田安門以外江戸城では見られない。 細川忠興のものと見られる「十」の刻印が2つある。
半蔵門
名前の由来
「半蔵門」の名の由来は、服部半蔵正成が警護についた門だから。 半蔵以下 与力30騎、同心200人がこの門外に組屋敷を構え、警護していたという。門内には半蔵の屋敷もある。 徳川家康は伊賀越えの際、服部半蔵らによる警護で難を逃れたことがあり、 戦時に将軍が服部の者共と半蔵門から脱出できるよう造られたとも言われている。
実際、半蔵門から甲州街道を辿ると、幕府天領 甲府城まで行きつく。
(江戸三大祭の一つ、山王祭で象の山車が門をくぐれず、半分しか入らなかったため半象門と呼ばれるようになり、それが半蔵門という名称になったともいわれている。)
将軍脱出路
将軍が脱出するとき、甲州街道を四谷門先の、北伊賀町、南伊賀町で忍びの者らと合流でき、さらに進むと、忍びの集合場所「笹寺」を通過する。その先の大久保には根来、甲賀組屋敷があり、常に忍びに警護されながら甲府へ進める。 当時、江戸から甲府までの甲州街道四谷見附あたりに、「忍丁」「伊賀町」などの地名もあった。
江戸五口
半蔵門は内郭見附門で、半蔵濠と桜田濠の間に位置する。甲州口へ通じる門で、江戸五口の一つに数えられる。甲州街道は半蔵門を起点としている。
古くは麴町御門と呼ばれていた。
天皇・内廷皇族及び秋篠宮家の皇居への出入りには、主にこの門が用いられている。 1618年、安芸広島藩主・浅野長晟が地形を普請し、1620年に伊達政宗ら奥羽の大名が桝形虎口を築き、1627年、門が建造された。 当時櫓門があったが、明治になって1871年撤去された。
その後再建されたが、戦災で消失している。
現在、高麗門があるが、和田倉門から移築したものである。
外桜田門
築造と概要
外桜田門は東海道に接続し、小田原に繋がる門として、「小田原門」とも呼ばれ重要視されてきた。江戸五口にも数えられる。
江戸城には他に内桜田門という門があるが、一般的に「桜田門」と呼ばれる門は外桜田門である。
そもそも、「桜田」の名称は、古来からある地名が由来。平安時代前期の史料にも、荏原荘桜田との地名が見られ、平安時代には桜田という名称の集落が近辺にあったことがわかる。江戸氏一族に桜田姓を名乗る者もいるため、この当時身近な名称だったのか。
徳川家康入場時は簡易的な門しかなかったため、常陸真壁藩浅野長重が石垣や門を築きなおしたという。その後、伊達政宗ら奥羽の大名によって1620年、桝形虎口門を建造した。大正になって関東大震災が起き、桜田門も被災。現在見られる門はその後再建されたものだ。
石垣は洗練された切り込みはぎで、登る際手足を掛ける隙が無い。 石材には東伊豆の安山岩、瀬戸内海の御影石、花崗岩などが用いられている。
桜田門外の変
1860年3月3日午前九時、大老・井伊直弼は、共廻り60名ほどを連れて井伊家上屋敷から桜田門へ入るところを、門外で水戸浪士らによる襲撃を受けた。「桜田門外の変」である。この一件から、本などでも取り上げられることが多い。
防御と構造
土橋を通じて門を潜る構造をしているが、外から土橋を歩くと、左手の的場郭から横矢が掛かる造りをしている。
門は9×4間の大規模なものだ。
桝形内は東西32m,南北20m,の長方形外桝形。高麗門を通ると戸張番所がある。 渡櫓門は現在重要文化財に指定されている。
常盤橋門
神田橋門
おわり。昔、江戸を守った江戸五口の見附たちは現在、ビル群に変貌しました。