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安土城の大手道についての記事です。

安土城大手道の通説


通常、日本の城は大手道を屈折させ、敵兵に横矢(側面攻撃)を掛ける構造をしているが、安土城の大手道は、安土山麓から中核部へ直線状に伸びている。これは防御に適さない造りであり、織田信長は戦の無い時代を見据え、革新的な大手道を築いたと言われている。
また、直線状にした理由として、城下と連携しやすく、軍事よりも内政面を優先したためだとされる。
大手道の周辺には徳川家康邸、前田利家邸など、家臣や要人の邸宅が構えられていて、直接城下まで一直線で歩いて行けるため、利便性はとても良い。 さらに、万が一敵が大手道を登ってきたとしても、城山中腹の黒金門を通過すると桝形が連続する攻撃的な縄張りをみせ、簡単には中核部へ侵入できない。
大手道を実際に歩いてみても、やはり通説に賛同できる。
しかし、近年この通説を否定する異論が唱えられている。

大手道に残る疑問


安土城大手道の西側(左手)には、上段曲輪と、下段曲輪の二つの曲輪で構成された「羽柴秀吉邸」が構えられていたという。下段曲輪には馬屋を備えた櫓門があり、上段曲輪には遠侍、台所、主殿があったとされているが、曲輪同士を繋ぐ道がなかったことが分かっていて、帰城した際に下段曲輪の櫓門に馬を入れた後、一旦大手道に出て上段曲輪まで歩かなければならないことになる。
つまり、不便で実用性に欠けるということ。
これは千田嘉博さんの『信長の城』岩波新書 2018年 で指摘されている。
他にも、同書には台所と主殿を同じ場所に造る不自然さなどを挙げ、上段曲輪の建物の機能比定に再検討の余地があるとしている。
こうしたことから、研究者の間で大手道は何か別の用途があったのではないか?と、疑問が生まれる。

防御面も秀逸


安土城の大手道は、徳川家康邸(総見寺)辺りで途切れていた。しかし、滋賀県安土城郭調査研究所による発掘調査で、江戸後期に本来の大手道が埋められて、総見寺の境内を拡張していたことが判明。 中腹から山頂まで、幾度か屈折していることが分かった。
決して防御もおろそかにはしていなかったのだ。

天皇行幸との関係性


勧修寺晴豊の「晴豊記」に、「行幸之用意うまくらこしらへ出来の間・・・」と、天皇が安土へ行幸する動きがあることが書かれている。(山科言継書状にも安土への行幸について綴られている。)
さらに、御幸の間と呼ばれる、京都御所の清涼殿と似た構造の御殿が本丸にあることも踏まえ、直線状の大手道は天皇のために造営されたものだとする説も浮上した。 しかし、織田信長の以前の居城である小牧山城でも、一直線の大手道が採用されているため、安土城のみを特別、天皇行幸と結び付けて考えることはできないとする意見もあり、決着はついていない。

滋賀県教育委員会の主張


安土城が城として機能していた当時の文献に見られる登城路は、城山西にある百々橋口道であるため、現在大手道と呼ばれる登城路が実際の大手ではなく、天皇行幸のために造られた道であると、滋賀県安土城郭調査研究所(滋賀県教育委員会)が主張している。また、貞享4年1687年の「近江国蒲生郡安土古城図」などの史料や発掘調査の結果から、大手口に4つの門が共存していることを明らかにし、天皇の出入りする門と、身分に応じて出入りする門であると解釈した。


天皇行幸説の矛盾点


滋賀県教育委員会の見解では、大手道は、大手門の黒金門に連絡せず、本丸の南虎口へ続いていたとしているが、南虎口幅は2.5mしかなく、天皇が行幸すれば窮屈すぎる。天皇行幸のために道を築いたとは....考えずらいのではなかろうか。(せめて道広くしないと失礼ってこと) これらの理由から矛盾点が生まれるが、詳しい大手道の発掘調査が行われていないためか、滋賀県は1999年から「賓客などを迎えるための道、見せるための道」と主張を曲げない。

神格化説


安土城の縄張りを見てみると、中世の山岳寺院の造りと似ている気もしなくもない。 中世畿内の山岳寺院では、一直線の参道や道はよく見られる構造だ。織田信長が初めて安土城に取り入れたと言われている鯱も、元来、寺院の厨子の屋根に用いられていたもの。わざわざ信長が明から一観という技士を呼んで作らせたという「瓦」も、日本では寺院に用いられたのが起源だ。さらに、織田信長が安土城で初めて建てた「天守」も、もとは中国の寺院の楼閣が源流。
因みに、ルイスフロイスの「日本史」に、織田信長は誕生日に城下の総見寺に、自身の神体の像を置いて、人々に拝むよう強要したことが書かれている。 織田信長は、自らを神格化しようとしたのではないか。
また、信長は天守内部を民衆に公開したこともあり、 直線に延びる大手道から壮観な大天守を見せることによって、権威を示威しようとした可能性もある。魅せるための城、象徴の城として機能できるように、また、見学する民衆のために、大手道を直線にしたのでは?

織田信長廟


現在、安土城の二の丸のは信長廟がある。(1583年、本能寺の変翌日に羽柴秀吉が建立したとされる)また、菩提寺の総見寺が安土城にあり、城は信長の墓としての機能も持っていた。その墓参に不便のないよう、現在大手道と呼ぶ道を築いたとも考えられている。

百々橋口と大手道


(2002年、木戸雅寿さんが唱えた説)
現在、大手道として扱われ争点となっている道は、実は大手道ではなく、天皇行幸のために築かれたもので、実際の大手道は、百々橋口であるともされている。
通常使用するのは百々橋口で、天皇に権威を示威するため、行幸に不便のないよう道幅を広くして築かれたのが、通説の大手道であるという。 上洛道が直結していることもその根拠の一つだ。

結論は


結論、まだ分からない。
伝大手門付近の調査では、大手口に複数の門があったことが明らかになっているが、詳細は不明のまま。
天皇行幸説の根拠となっている「御幸の間」の存在も、はっきりとはせず、研究者たちの間で意見が分かれているところだ。
今後の調査に期待したい。