1454年(享徳3年)から1482年まで続いた関東の大乱 享徳の乱 の時、大石石見守が東京都葛飾区青戸に築いた葛西城は、江戸時代に徳川将軍家の休憩所・宿泊所に変貌を遂げた城として有名だ。
戦国時代、奥羽に30万石ほどを持っていた大大名・葛西氏が築いたとも言われている。
享徳の乱終結後、北条氏が侵攻。一度は耐えたものの、二度目の戦いで葛西城は落城。北条氏の手に落ちた。
古代東海道、水戸街道を押さえ、中川に面した交通、水運の要衝であった葛西城は重宝された。
このころ、当時関東で一番権力を持っていた古河公方・足利義氏が葛西城で元服式を北条氏康参列のもと行い、その後葛西御座が計画された。
実際に葛西に在城する期間は短かったが、その頃は経済の中心地だったと考えられている。
また、北条氏と里見氏が千葉県で激突した大戦、国府台合戦では北条氏方の前線基地として活躍したという。因みに、この時の葛西城主であった遠山弥九郎は国府台合戦で先鋒を努め戦死した。
北条が下総までが勢力を伸ばした頃は、「政所」と呼ばれる武蔵(東京、埼玉)の政治の中心の城であった。
1560年には上杉氏方勢力に乗っ取られる事件が起き、本田正勝が北条氏康の命を受けて、葛西城を奪取した。本田正勝は忍者を従えており、忍者が忍術を駆使し葛西城本丸を落としたという。葛西城は忍者が活躍した城としても有名だ。
そして時が流れ、1590年、北条討伐に動き出した豊臣氏は葛西城にも攻め寄せた。
周辺の北条方諸城が落城する中、葛西城は孤城奮闘。激闘の末落城し、廃城。
これが葛西城の歴史です。意外とすごいお城...
発掘調査では、大規模な堀が検出されたり、大量の古銭が出土したりしていて、大きな城であったことが分かっています。
徳川家康は青戸の名主、清水土佐守に命じて葛西城を撤廃させて御殿造りに変えさせた。
御殿の普請奉行は荒川七兵衛、水上五兵衛が務めた。
こうして葛西城の本丸跡に、東西68m、南北92mという巨大な御殿が造営された。 周りには多数の木を植えて整備されていたといわれ、 葛西城は「青戸御殿」や「葛西離館」などと呼ばれるようになった。
それと、江戸城から約10kmというアクセスの良さも、青戸が選ばれた理由の一つ。現代人の歩く速さは時速約4kmらしいので、昔の人はもう少し筋力があったとして時速5kmと考える。すると、歩いても江戸城から青戸御殿まで2時間で行けることになる。
日帰りでも十分鷹狩を楽しめるだろう。 家康が青戸に目を付けたのには、この地ならではの理由があったのだ。
生類憐みの令が発令されている期間は鷹狩が行われていません。
鷹も生類憐みの令の対象なのかもしれません。
発掘調査では、鷹のエサと思われる動物の骨などが多数出土しています。
今でも、「鳥溜」など、青戸には鷹狩に関係する地名が残っていたりしています。
マイナーだが歴史ある城
まず、今回取り上げる葛西城の歴史についてざっくり説明します 葛西城は、銭拾い伝説で有名な青砥藤綱の館があったと言われる場所に、享徳の乱の時に扇谷上杉氏方の大石石見守が城を築いたのが始まりとされる。戦国時代、奥羽に30万石ほどを持っていた大大名・葛西氏が築いたとも言われている。
享徳の乱終結後、北条氏が侵攻。一度は耐えたものの、二度目の戦いで葛西城は落城。北条氏の手に落ちた。
古代東海道、水戸街道を押さえ、中川に面した交通、水運の要衝であった葛西城は重宝された。
このころ、当時関東で一番権力を持っていた古河公方・足利義氏が葛西城で元服式を北条氏康参列のもと行い、その後葛西御座が計画された。
実際に葛西に在城する期間は短かったが、その頃は経済の中心地だったと考えられている。
また、北条氏と里見氏が千葉県で激突した大戦、国府台合戦では北条氏方の前線基地として活躍したという。因みに、この時の葛西城主であった遠山弥九郎は国府台合戦で先鋒を努め戦死した。
北条が下総までが勢力を伸ばした頃は、「政所」と呼ばれる武蔵(東京、埼玉)の政治の中心の城であった。
1560年には上杉氏方勢力に乗っ取られる事件が起き、本田正勝が北条氏康の命を受けて、葛西城を奪取した。本田正勝は忍者を従えており、忍者が忍術を駆使し葛西城本丸を落としたという。葛西城は忍者が活躍した城としても有名だ。
そして時が流れ、1590年、北条討伐に動き出した豊臣氏は葛西城にも攻め寄せた。
周辺の北条方諸城が落城する中、葛西城は孤城奮闘。激闘の末落城し、廃城。
これが葛西城の歴史です。意外とすごいお城...
発掘調査では、大規模な堀が検出されたり、大量の古銭が出土したりしていて、大きな城であったことが分かっています。
徳川家康の目に留まる
江戸時代、徳川家康が葛西(東京都葛飾区、江戸川区の一部)を巡見した際、青戸にある葛西城 が目に留まり、徳川が鷹狩をする時の宿泊所・休息所になった。徳川家康は青戸の名主、清水土佐守に命じて葛西城を撤廃させて御殿造りに変えさせた。
御殿の普請奉行は荒川七兵衛、水上五兵衛が務めた。
こうして葛西城の本丸跡に、東西68m、南北92mという巨大な御殿が造営された。 周りには多数の木を植えて整備されていたといわれ、 葛西城は「青戸御殿」や「葛西離館」などと呼ばれるようになった。
なぜ青戸?
青戸には湿地帯、田、沼、が多く、鷹狩りに適していたということから、徳川家康は青戸を選んだ。実際、かつて葛西城の西には湿地帯が広がっていた。文化財総覧WebGIS参照
現在の色別標高図を見てもそれが分かる。それと、江戸城から約10kmというアクセスの良さも、青戸が選ばれた理由の一つ。現代人の歩く速さは時速約4kmらしいので、昔の人はもう少し筋力があったとして時速5kmと考える。すると、歩いても江戸城から青戸御殿まで2時間で行けることになる。
日帰りでも十分鷹狩を楽しめるだろう。 家康が青戸に目を付けたのには、この地ならではの理由があったのだ。
徳川将軍家の葛西訪問履歴
西暦 | 和暦 年月日 | 出来事と備考 |
---|---|---|
1612年 | 慶長17年10月 | 道中宿付(金井文書)に、徳川家康の宿泊予定地として葛西の地名が書かれている |
1613年 | 慶長18年11月27日〜28日 | 徳川家康、葛西にて放鷹をする |
1614年 | 慶長19年1月17日 | 徳川家康、葛西に訪れる |
1615年 | 元和元年年10月21日 | 徳川家康、鷹狩にて葛西に訪れる |
1615年 | 元和元年年11月15日 | 徳川家康、葛西に訪れる |
1615年 | 元和元年2月26日 | 徳川家康、葛西に訪れる |
1618年 | 元和4年1月7日 | 徳川秀忠、葛西辺りで鷹狩を行う |
1620年 | 元和6年1月10日 | 徳川秀忠、葛西辺りで鷹狩を行う |
1625年 | 寛永2年3月30日 | 徳川秀忠、葛西で鷹狩を行う |
1630年 | 寛永7年1月11日 | 徳川家光、葛西にて鷹狩を行う |
1631年 | 寛永8年 | 徳川家忠、葛西で鷹狩を行う |
1633年 | 寛永10年年2月22日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1634年 | 寛永11年3月6日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1634年 | 寛永11年3月13日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1635年 | 寛永12年9月27日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1635年 | 寛永11年11月16日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1635年 | 寛永12年12月18日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1635年 | 寛永12年12月20日 | 徳川家光、葛西辺りへ立ち寄る |
1636年 | 寛永13年2月8日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1636年 | 寛永13年8月22日 | 徳川秀光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1636年 | 寛永13年9月25日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1636年 | 寛永13年12月3日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1636年 | 寛永13年1月5日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1636年 | 寛永14年1月8日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1638年 | 寛永15年2月13日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1638年 | 寛永15年4月11日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1638年 | 寛永15年10月13日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1638年 | 寛永15年10月18日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1638年 | 寛永15年12月2日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1641年 | 寛永18年1月10日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1641年 | 寛永18年1月25日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1642年 | 寛永19年8月18日 | 徳川家光、葛西で鷹狩を行う |
1642年 | 寛永19年11月27日 | 徳川家光、葛西辺りでで狩を行う |
1643年 | 寛永19年11月26日 | 徳川家光、葛西で狩を行う |
1644年 | 正保元年2月3日 | 徳川家光、葛西で狩を行う |
1644年 | 正保元年2月11日 | 徳川家光、葛西(厳密には中川辺り)で狩を行う |
1644年 | 正保元年11月12日 | 徳川家光、千住、葛西辺りで鷹狩を行う |
1644年 | 正保元年11月12日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1645年 | 正保2年3月10日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1645年 | 正保2年11月29日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1646年 | 正保3年11月19日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1646年 | 正保3年1月12日 | 徳川家光、葛西辺りで鷹狩を行う |
1647年 | 正保4年9月20日 | 徳川家光、葛西辺りで狩を行う |
1648年 | 慶安元年(閏年)1月9日 | 徳川家光、葛西辺りで狩を行う |
1648年 | 慶安元年(閏年)9月20日 | 徳川家光、葛西辺りで狩を行う |
1648年 | 慶安元年(閏年)12月6日 | 徳川家光、葛西辺りで狩を行う |
1649年 | 慶安2年1月4日 | 徳川家光、葛西辺りで狩を行う |
1649年 | 慶安2年12月9日 | 徳川家光、葛西辺りで狩を行う |
1650年 | 慶安3年(閏年)10月3日 | 徳川家光、葛西辺りで狩を行う |
1718年 | 享保4年3月27日 | 徳川吉宗、葛西辺りで鷹狩を行う |
1720年 | 享保5年3月27日 | 徳川吉宗、葛西辺りで狩を行う |
1725年 | 享保10年1月12日 | 徳川吉宗、葛西辺りで狩を行う |
1731年 | 享保16年11月16日 | 徳川吉宗、葛西辺りで鷹狩を行う |
1731年 | 享保17年2月4日 | 徳川吉宗、葛西辺りで狩を行う |
鷹も生類憐みの令の対象なのかもしれません。
発掘調査では、鷹のエサと思われる動物の骨などが多数出土しています。
今でも、「鳥溜」など、青戸には鷹狩に関係する地名が残っていたりしています。
青戸御殿のアクセス
江戸城から徒歩で青戸まで鷹狩りに行きたい方へ、交通ルート情報。- 江戸城大手門を出て、日本橋方面へ行きます。
- 日本橋から日光街道を歩きます。
宿場町を通るので、混雑が予想されます。 - 千住まで来たら、水戸街道を新宿方面に進みます。
- 宿場町から青戸の銀杏の大木が見えたら青戸御殿のすぐ近くです。
- 青戸御殿到着です!