戦いまでの経緯
織田信長の天下統一事業の中で、毛利討伐は最優先課題でした。織田信長の命を受けて、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天正6年(1578年)から因幡攻めを着手し、天正8年(1580年)5月に因幡に出陣して鳥取城主の山名豊国を降伏させました。しかし同年9月、山名豊国の家臣が謀反を起こして山名豊国を追放し毛利方に味方。鳥取城も毛利方に接収されてしまい、羽柴秀吉は鳥取城奪還を目指しました。これによって....鳥取城の「鳥取城の渇え殺し」とも呼ばれる、残酷な攻城戦が始まろうとしていました............
羽柴秀吉の謀略
秀吉は、家臣を近江の商人に仕立てて、鳥取城下に潜入させました。ここからが重要なポイントです。潜入した秀吉の家臣は鳥取城下にある米を高値で買い漁りました鳥取城城兵は金に目がくらみ、城内にある備蓄米まで売りさばいてしまいました。これによって鳥取城内では米が不足しました。
鳥取城包囲
鳥取城は堅固で、力攻め(作戦などがなく、ただ武力、兵力に任せて衝突する攻め方)をすると、甚大な被害が出る為、秀吉は兵糧攻め(兵糧詰とも言う)を決行しました。兵糧攻めの手順として、先ず城を包囲します。そして敵方の補給を断つため、近隣の街道などを封鎖し、標的の城を完全に孤城とします。そして標的の城の兵糧が尽きるまで待ち、標的の城を落とします。
これには陣城と呼ばれる、臨時的な城郭を鳥取城の周りに築き、鳥取城を包囲する作戦としました。
幾多もの陣城の中でも「太閤ヶ平」という陣城は大規模で、現在でも遺構がみられます。
一方、兵糧攻めは、標的の城の兵糧が尽きるまで大軍で長期間待つので、攻める方の兵糧も不足しやすいという、デメリットがありました。
それでも、秀吉は、兵糧の搬入がスピーディーに行えるように補給経路の準備など、周到な用意がされていました。まさに完璧な作戦といえるでしょう。毛利が万が一、鳥取城の救援のために、陣城に攻めてきてもいいように、夜戦のための支度も整えていたといいます。
こうして、鳥取城は孤城と化しました
「鳥取城の渇え殺し」
「鳥取城の渇(かつ)え殺し」と言われる残酷な戦いはここから始まりました。
秀吉は鳥取城下の市民を鳥取城に追い込んだので、鳥取城内では避難民と守備兵で混み合っていました。当然、兵糧が不足していた避難民には食料がなく、餓死者が続出しました。
戦いが始まって数日は、城内の人々は城を出ていき、草や木を刈って食べていたが、すぐに刈り尽くし、城内の馬を殺して食べていました。
寒さも加わり、極限状態になった人々は、餓死した人の遺体を解体して食べていたといい、中でも頭部が美味だったらしく、人々は餓死者の頭を奪い合い、食べていました。城内の人々は柵ぎわまで来て、「助けてくれ」と泣き叫び、織田軍に撃ち殺されました。
その後、城守の吉川経家は自分の命と引き換えに、生き残っている人の命を助けるように秀吉に申請され、吉川氏とその家臣は切腹。
これにて鳥取城の戦いが終結しました。
因みに生き残った人々には、秀吉によって米が与えられたのですが、過半数が食べ過ぎて瀕死してしまいました。
羽柴軍にはほとんど被害がなく、鳥取城に甚大な被害を与えることができた、この「兵糧攻め」は他の城にも秀吉が幾度が行いました。