戦国時代、合戦が起こった時、徴兵されない農民はどこへ逃げ延びたのでしょうか?...それは山でした。

山上り

農民は山に逃げました。 このことを山上りと言います。山は山でも、なるべく要害の地を選びます。
さすがに敵兵もわざわざ山に登ってこないでしょうから、農民にとっては得策でした。

逃げた後

山に逃げた後は、ある程度の風雨に耐えられるように、小屋を建てたりしていたといいます。
また、逃げるときは多少の武器と兵糧を持参していた為、 敵は、要害の地にいる農民をわざわざ攻めていくことはあまりありませんでした。
しかし、織田信長の右筆である太田牛一が編纂した「信長公記」という書には、織田信長が「御断りを申上ず曲事」おことわりもうしあげずくせごとと批判し、山に籠る村人たちを襲ったという記録があり、織田信長は山上りを嫌ったようです。

城上がり

城に逃げる場合もありました。
城に逃げたほうが山よりかは安全かもしれませんが、城が陥落したときには危険が及ぶ可能性が高いので、やはり決して安全とは言えません。
でも城なら、要害の地である山より多少整備されているでしょうし荷物を運んだりするのは楽かもしれませんね。
城内では、男は防戦の手伝い、女は弾薬を作ったり、炊事をしたり、負傷兵の手当をやらされてました。
しかし城上がりは、場内の兵糧が十分に確保できていないのに農民が逃げてきたら、農民は餓死してしまいますので、豊臣秀吉は鳥取城攻めの際、鳥取城下の農民を鳥取城に逃げさせ、兵糧の減りを速くして、餓死者を増やし鳥取城を落としました。

逃げないとどうなるのか

城攻めの際、「あぶれ者」と呼ばれる、今でいう暴力団的な、暴力専門の人たち(悪党)を動員して国を崩壊させることがあります。 農民たちは、山や城に逃げなければそうした輩に暴力を振るわれ、殺されてしまう可能性がありました。
また、戦時は敵兵の足軽や陣夫によって略奪、暴力、人取りが盛んに行われていたので、それから身を守るという意味でも、山、城に逃げることは大切です。 それと、敵兵にさらわれ、人身売買されることがあるので、それからも身を守ることができました。

農民たちの苦悩

山に持っていける兵糧、水は限られていますから、戦いが長引けば足りなくなってしまいます。過酷だったと思います。
あと、逃げて身を守れたとしても、家は守ることができません。戦国時代城を攻めるときは、「小屋落とし」といって、布陣のために邪魔な建物を取り壊すことがあるので、命は助かっても家と家財は殆ど残らない。
このように、戦国時代、人身売買、人攫い、人の奪い合い、略奪、放火、無差別殺人、乱取りが横行していました.