葛西城乗っ取り作戦の経緯

東京都葛飾区の葛西城という城では、かつて、忍者によって大規模な争奪戦が繰り広げられていました。
永禄3年(1560年)上杉謙信が反小田原後北条氏勢力を結集し、当時小田原後北条氏が統治していた、関東へ出陣しました。上杉勢は数々の小田原後北条氏の支城を落とし、葛西城も上杉氏の手中に落ちました。
当時葛西城は、交通の便に優れ、軍事的な要衝であったので、北条氏は葛西城の奪還を最優先課題と位置づけました。

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葛西城の写真です 現在公園化されていますが立派な城跡です。

兵力招集

永禄6年(1563年)3月、北条氏当主・北条氏康は、葛西の武士、本田正勝に、正勝とその下にいた同心らを合わせて葛西城奪還に協力すれば、江戸、足立周辺はもちろん、どこでも望みの地を与える事を約束しました。
そして同年3月22日、北条氏康は正勝に「葛西要害以忍乗上申付者、為御褒美可被下知行方事」と、葛西城を忍びを駆使して落とせば葛飾区、江戸川区の一部の知行、金銭500貫文(現在の5000万円)を追加で与えることを確約。
さらに北条氏は江戸の飯倉の加増も認めました。
忍びを従えていた正勝は忍びを駆使して葛西城を乗っ取ることを了承し、準備に入りました.....

葛西城乗っ取り

3月24日、夜中、太田康資(北条方の武将)の指揮のもと、正勝率いる忍びの軍勢は暗闇の中、堀を超え、土塁を登り、城の裏から夜襲を仕掛け、搦め手の郭を落としました。そして矢倉に火をつけ、大手口に潜む太田康資軍(北条本軍)に合図を送りました。
すると大手口から太田軍が大手口から攻め上がり、手薄になっていた大手の郭を落としました。そして...忍びらによって本丸が攻略され、葛西城乗っ取りに成功したのです。

忍びの戦略

葛西城は西に湿地帯が広がっています。夜中、的確に郭の位置を把握し、堀、土塁を超えて城内に潜入する事は極めて困難です。葛西城守備兵もまさか裏手から攻めるとは思わないでしょう。 また、本軍が大手口から攻めたのは、忍びの攻撃によって大手が手薄になっていることを予測した上での作戦でした。 忍びの凄さを窺える一件です

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